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先日、文学研究者たちの研究会に参加させていただいて、中古文学の面白いところをたくさん教わったんだけど、専門違いなので聞くに聞けなかったのが、王朝文学でありがちな文が延々と続いていつまでも終わりが来ない現象のこと、あれを私的な文だって、だらだらいつまでも続くのを文体としては肯定的に捉え難い、としてるんですよね。

ここまで一文。こういうのを日本語学では節連鎖とか、連節構文などといって話し言葉の特徴だと言って、どこまでも続けていけますよね、話し言葉では。こっちの方がむしろ自然で、文の終わりが比較的すぐに何度もやってくる書き言葉の方が人工的、制度的ってことになる。

例えば源氏物語のような中古和文でも節連鎖は至る所に現れていて、それが現代文に慣れた私たちには読みづらい。ある知り合いの京都の研究者曰く、あれをな、関西のおばちゃんの語りのニュアンスで読むとな、すっと自分らの言葉になって胸に落ちて、などと言う。なるほどなと思った。

だとダラダラ文こそが、日常の、肩肘張らない、身体の伴った、お茶飲みの、おしゃべりってことになる。そう捉えた方が当該作品をもっと建設的に捉えられるのではと思ったのでした。

主述はめちゃくちゃなところあるけど、この書き方だと無限に書けるな

原語の内容に問題があることは一旦横へ置いといて(置いとけなくても)、「惨めな子のない」という語順で翻訳することは日本語としては工夫されても良かったんじゃないかと思ってしまう。これでは、惨めな、のかかり先がふた通りになるでしょう。私だったら「子のない惨めな」という語順にする。

話し言葉だとどんどん言葉を継いでいくから、こういう語順もあり得るけれど、バシッと決める書き言葉の、しかもタイトルではなー。

ハリス氏らを「惨めな子のない女性」と中傷 バンス氏過去発言に批判
asahi.com/articles/ASS7V25BJS7

日本国語大辞典の第三版出版に向けて動き出したとのこと、これはことばに関わる界隈では大きなニュースです。日本国語大辞典、略して日国(にっこく)は日本で最大の国語辞典で知られていますが、1972年に初版、2000年に第2版で、いまJapanKnowledgeで広く使われているのが第2版です。私も大学院生の時に全13巻を購入しました。
shogakukan.co.jp/pr/nikkoku3/

2032年に完成させて、34年に発売を開始するスケジュールなんだとか。10年後ですね。辞書作りとしては非常に短い期間に仕上げなければならないのだと思います(これまでも内部で改訂の準備はしてきたでしょうけれど)。

第2版もそうですが、大学院生がアルバイトにかり出され、まさに人海戦術で作業が進められることでしょう。何と言ってもこの辞書の特徴は、可能なかぎり初出例を記載するというスタイルです。文献を縦横に利用しなければなりません。

私の専門で言うと、アクセント史が各項目に載っているのも特色です。…とここまで書いて、これは私の所まで仕事が来るのかな。まだ特に話はないけれど…。

今年のラインナップが揃いました。梅干し、灼熱の炎天下ゆえか、すでに塩ふきまくりです。

高齢者が政治を動かすことには問題が伴うのは事実だが、恐竜と違って体は強くならないものの、ある種の叡智は死ぬまで豊かになる。そういう知恵は社会にとって大事なものだと思う。

というのは生きていれば自分も必ず高齢者になるのだし、できれば豊かな知恵を持つ爺さんになりたいと思うからでもあるが、勝つためには何でもやるという向きは、自分が高齢者でもさらに高齢者を叩くということをやるのだろう。結局それは自分で自分を呪うようなものだろう。カマラ・ハリス氏が後継者となった今、トランプ氏にはブーメランになってしまった格好で、「全ての高齢者が知恵を持つわけではない」ということも明らかになってしまった。

以下の記事では、高校を会場にしたこと、ビヨンセが楽曲の使用を認めたことなどが記される。へー、ビヨンセが。盤面の様子に一週間前とずいぶん違う気配が漂うように感じられるのは、私の周りのエコーチェンバーかもしれないが。

「未来のための戦い」強調 ハリス氏が初集会 「若さ」に支持者期待 [アメリカ大統領選挙2024]:朝日新聞デジタル
asahi.com/articles/ASS7R7QFLS7

同じものばかり食べてゐる 放哉(偽)

まあ多文化共生に基本的な足場を置く自分としては、アメリカ政治に批評的な目を持つわけでもないので、素直な気持ちでカマラ・ハリスを推すのでした。娘曰く、インスタとかネットに流れてくる情報からすると自分はもうトランプでいいと思ってる、トランプの何がダメなわけ?ということで、家庭内で有意義な対話が行われたわけですが、知識層の上っ面の議論が現場の人たちの気持ちを捉えてないわけだから、自国主義のトランプで何が行けないのかという子どもの捉え方は、それなりの現実を反映した意見ではある。父はその知識層の上っ面の議論も、やはりとても大事なものだと思っているのですよ、こういう仕事をしているからと言われそうだけど。

娘の世代はほんとSNSなのだなあ。国境を越えても若者の価値観に(扇情的に)訴えてくる。私は、清濁併せ飲んだところで、それでもアメリカは今の人権に関する考え方を牽引してきた大事な知的資源の一つだと思いますよ。上っ面で人は生きていけないけれど、上っ面を失ったら動物になるよ。

まあ、カマラ・ハリスの政策がどうのと言うわけじゃない。トランプがヤバいというのは分かる。例えば安倍政権が言語を破壊したような蛮行が、これ以上世界を覆ってほしくない。

jiji.com/jc/article?k=20240722

梅紫蘇がこの猛暑のためにあっという間に乾燥しました。早速グラインダーにかけたら、この通りすっかり細かい粉に…たぶんこれお湯に溶いて飲めるんじゃないだろうか。少し原型を留めているところもあるけど。

生卵かけご飯とか、キュウリとかと相性が良さそう。

秋永先生は昭和の生まれでしたが、インタビューは古くは明治12年生まれの人に尋ねていました。そこには東京ではなく江戸の感覚が間違いなくあったでしょうし、事実本の中で十返舎一九や式亭三馬の文学作品のことばを例証として挙げられていた。秋永先生のいう江戸弁は、旧東京市15区に太平洋戦争が終わるまでに生まれた人に受け継がれている、と定義されていたけれど、その意味するところは失われていく江戸のことばの、その尻尾を捉えようとすることにあったのだなと思います。

山形市の高齢者達といっしょに方言集を作っていくとき、私にも(それには及ばないけれど)似たような感覚があった。ようやく師匠の気持ちにたどり着いたような気がします。

リンク先は、昔いた大学で作った方言集
t-bunkyo.ac.jp/minamiyamagata/

(3/3)

私は秋永先生の江戸言葉関連の業績はほとんど見ずに来ました。歌舞伎や小唄、踊りやそれに関わる芸人さんのことが教養と結びついている、それを知らない無粋なやつは田舎者だ、という都市人の気位みたいなものがどうしても苦手だったからです。でも私も50を越えて、山形で地元の言葉に付き合って、ああ先生はこういう生きた言葉にほんとうの愛着があった、失われていく江戸弁に哀惜の情があったんだということが、ようやく腹の深いところで飲み込めた気がします。
ja.wikipedia.org/wiki/秋永一枝

私が知っている秋永先生は当然のことながら教壇にたつ一面に過ぎないわけで、亡くなってから色んな人から話を耳にして、やっと「人間秋永」の肌触りが分かってきたような気がしています。墨田区両国の下町で育った一人の市井の人間として、ご自身の言語学の知見を生きた世界に還元されようとしていたんだなと今は思います。(2/3)

「五(ご)」や「九(く)」は「九が」などの東京アクセントは、古く「日が(出る)」「胃が(いたい)」と同じアクセントであったと言われます。これは古いアクセント辞典を見れば明らかなことです。いま学生達と三省堂『新明解日本語アクセント辞典』の「アクセント習得法則」を読んでいますが、「九が」などという文脈はどんなだっただろうねと疑問に思ったりしていました。

それで、習得法則をお書きの秋永一枝氏『東京弁は生きていた』を弟子でありながら初めて開いてみました。これは明治期生まれの東京人へのインタビュー集で、いわゆる江戸の言葉が活写されている本です。そこに、地震占いのような民間伝承が載っていて、「九は病、五七は雨に四つ日照り、六つ八つならば風と知るべし」とあります。いわゆる不定時法で、九つなら深夜12時というやつですね。このフレーズのなかに、古い江戸のアクセントが残っているというわけです。(1/3)

梅雨が明けたので早速天日干しを。数日日に当てたら瓶詰め作業。今年の梅は少し小ぶりかな。不作だったようですね。紫蘇は多くなってしまったので、ゆかり天国です。

超能力なんて持っていたって、それで自分はどう生きるんだいという問いは、考えてみればONE『モブサイコ100』に引き継がれたのかもしれないな。

あるいは鶴見俊輔が批判した「一番病」と、カウンターたる「生活綴り方」から読み解くのがいいのかも。

人としてどう生きるかという問いだけが空虚なままで、ただ人生の勝者であることが是とされるのは、私は今の新自由主義的な一部の風潮に繋がるように読めました。

岩朗均『七夕の国』が民俗学・怪奇SFとしての名作であることに変わりはないが、思想史的にも面白そうなので、よい考察が読んでみたいですね。

今更ながら読みました、岩朗均『七夕の国』。画像は4巻からです。90年代の中盤から市場を揶揄するようなメッセージを入れていたとは。思えば『寄生獣』もそうだったかもしれない。映画のほうは見ていないが、民俗学を使ったよい物語でした。

七夕に纏わる東北の祭りという筋立てで思い出すのは、やはりねぶた祭です。江戸期の絵には「七夕」とはっきり書いてあるので、あれは七夕祭りだったのですね。ねぶたの方は市場原理のなかで新しい観光コンテンツとして生き延びた、と言えるかも知れません。

『七夕の国』のほうは…ネタバレになるからこれ以上は言えませんが。

宮崎駿が近代的な文明批判をするのと違って、岩朗均が市場原理を批判するのは、30年後を見据えてのことだったのでしょうか。何だか気持ちが良いです。作中、「役に立つ」ってどういうことかが繰り返し問われます。主人公は「役に立つ」というのが幻想だと喝破して、自分なりの人生を選びます。2020年代の現在に映画化されることに意味がありそうに思うのでした。

例の石丸伸二氏が大きな支持を得たことを巡って、背景にある社会情勢について考えさせられることは多い。学生達のなかにもきっと支持者は少なからずいるだろう。そういう学生達を前に、大学教員が何を語ることが出来るか云々。

選挙後の各種インタビューでこれまで十分に見えなかった側面が少しずつ見えてきたようだが、今朝のテレビ番組のインタビューでは悪いイメージを払拭すべく、笑顔で聞き手に対応していた。ああ、こういう顔もするんだなと思いながら見ていると、「おんな子どもに手加減しないので」と発言していた。ワーディングも腑に落ちるし、ステレオタイプな「弱者」を仮構したうえで「公平性」を装うところもよく分かる。主戦場がYoutubeであれば喝采が得られるのだろうか。イメージ挽回を求めてテレビに出演する戦略としては疑問符が付く。驚いた視聴者も少なからずいるのではないか。

柔らかに見える「理性的」な話し方と、食ってかかった選挙後の話し方のどっちが地金かといえば、どっちも地金なんだろう。もういちど選挙後に話を求められたら、同じ対応をするだろうと彼は語っていた。

彼の価値観を受容するような層を理解することから始めなければならないなと思う。忘れないようにメモしておく次第。

それはそうと、たぶんアサリの砂抜きが十分でなくて、齧った砂で歯が割れた。以前、上の歯でも同じことがあって、その時は根元まで行った。犯人はアジの骨。

今回は神経まで到達しておらず、レジンで固めて凌いだ形。歳なんですかねえ。

写真は究極の個人情報であります。下顎の5番が欠けてるところ、上顎の白いのは前回の。こうして人はサイボーグになっていく。

現在と未来に希望の持てる記事。

イスラエル入植者とパレスチナ人が共同経営する中東料理店 憎しみが共感に変わるまで
globe.asahi.com/article/153273

そんな明代の沈没船から大量の陶器が発見されたとかで。
english.www.gov.cn/news/202406

カラパイア経由なんですけど、ここの写真が一番きれいだった。1500mの深海から発見された宝の数々は、博物館に収められるのでしょう。

通称「日本風土記」(侯継高『全浙兵制考』(1592)の附録)、内閣文庫本は内閣文庫デジタルアーカイブで見ることができるのだった。
digital.archives.go.jp/DAS/met

これは明代の中国語で日本語を書き写した文献で、「春」が「發而(fa’er)」、「夏」が「乃子(naizi)」みたいに表記されている。現代中国語で発音してもまずまず成立しますね。

いやー、ほんとかつては影印でしか見られなかったものが、いまや簡単にネットで見られるんだものな。

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