先日、文学研究者たちの研究会に参加させていただいて、中古文学の面白いところをたくさん教わったんだけど、専門違いなので聞くに聞けなかったのが、王朝文学でありがちな文が延々と続いていつまでも終わりが来ない現象のこと、あれを私的な文だって、だらだらいつまでも続くのを文体としては肯定的に捉え難い、としてるんですよね。
ここまで一文。こういうのを日本語学では節連鎖とか、連節構文などといって話し言葉の特徴だと言って、どこまでも続けていけますよね、話し言葉では。こっちの方がむしろ自然で、文の終わりが比較的すぐに何度もやってくる書き言葉の方が人工的、制度的ってことになる。
例えば源氏物語のような中古和文でも節連鎖は至る所に現れていて、それが現代文に慣れた私たちには読みづらい。ある知り合いの京都の研究者曰く、あれをな、関西のおばちゃんの語りのニュアンスで読むとな、すっと自分らの言葉になって胸に落ちて、などと言う。なるほどなと思った。
だとダラダラ文こそが、日常の、肩肘張らない、身体の伴った、お茶飲みの、おしゃべりってことになる。そう捉えた方が当該作品をもっと建設的に捉えられるのではと思ったのでした。
主述はめちゃくちゃなところあるけど、この書き方だと無限に書けるな