「一方で、マイナンバーカードを取得していない方や、まだマイナンバーカードを健康保険証として利用する登録をしていない方には、マイナンバーカードによらず保険資格が確認できるように、ご自身が加入している医療保険者(勤務先や各自治体など)から「資格確認書」が無償で交付されます」
https://www.digital.go.jp/policies/mynumber/insurance-card/optional-insured-status
マイナンバーカードを作りたくない場合は、保険証はそのまま放置でOKです。
今の保険証の期限が切れるまではそのまま使えますし、期限が切れたら、保険証とほぼ同じで名前だけが違う「資格確認証」というものを送ってきます。
マストドンでも、ブルースカイでも、ここが一番気が楽って言っている人は見る。
執拗に絡まれたり攻撃されたり、無自覚に無礼な態度を取られる(またはとってしまう)ことはSNSという場だとどこでも起こりうる事だから、単に「まだ」ぶつかってない、Xが酷すぎて相対的にものすごく安心できる、とかが理由として大きいと思う。
ユーザーや公開範囲なんかの特性の差で、使いやすさがそれぞれ違うのは当然で、むしろ合うところを見つけやすいし、また、場所によって別の取り組み方ができるのが面白い。
大事なのは、自分の投稿が誰かに見られているという自覚と、相手を慮る事。
対話するかを判断し、頑張ったり手を引いたりを無理せず選ぶ事。意識して、画面から目と心を30センチ離す時間を作る事。
朝方に、体調不良で遅刻しますがどうしても外せない仕事があるので出社はしますと連絡した人のホワイトボードに「仮病」って書いてあってな。
ダメだろと思ってたら事務所に来た職人さんがそれ見て「ハラスメントですよね」って言ったのを聞いて「そーですよね!!わたしもそう思います!あれはだめです!」とくそでかボイスを出してボードを書き直すなど。
吉見義明『草の根ファシズム』読了。私はこの人、従軍慰安婦関連の仕事以降しか知らなかったのだけど、この本は1987年、「慰安婦」問題が焦点化する以前の著作。こういう仕事が吉見氏の背骨になってるんだろうな。
日本の「ふつうの人々」の目線がどの辺にあったのか。少なくとも、そこに「日本は侵略している」という自覚はほぼなく、当然加害の意識もない。直接加害行為に加担してさえ、アジア人に対する差別感情で正当化されていたりする。
人々が苦悩を抱え込むきっかけになるのは主に二つ。一つは海外現地での、日本が加害している人たちとの具体的な交流の経験。いま一つは、本土と戦地を問わず敗北劣勢が突きつけてくる現実の生活の困窮。これらをきっかけに、辛うじてまともな「反省」につながる可能性が生まれてる。
しかも、敗戦を経ても、天皇制の呪縛はなお解き難くあって、本当に根深いのやな、と思わざるを得ない。
吉見氏も指摘するように、真摯な反省と反戦への気づきもあるが、あまりに小さな種火は、顧みられないままに埋もれつつある、というところか。状況は、今やさらに厳しくなってると思う。
“ そしてだまされたものの罪は、ただ単にだまされたという事実そのものの中にあるのではなく、あんなにも造作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己の一切をゆだねるようになつてしまつていた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである。
このことは、過去の日本が、外国の力なしには封建制度も鎖国制度も独力で打破することができなかつた事実、個人の基本的人権さえも自力でつかみ得なかつた事実とまつたくその本質を等しくするものである。
そして、このことはまた、同時にあのような専横と圧制を支配者にゆるした国民の奴隷根性とも密接につながるものである。
それは少なくとも個人の尊厳の冒涜ぼうとく、すなわち自我の放棄であり人間性への裏切りである。また、悪を憤る精神の欠如であり、道徳的無感覚である。ひいては国民大衆、すなわち被支配階級全体に対する不忠である。”
『戦争責任者の問題』(伊丹万作)
https://www.aozora.gr.jp/cards/000231/files/43873_23111.html
“ だまされたということは、不正者による被害を意味するが、しかしだまされたものは正しいとは、古来いかなる辞書にも決して書いてはないのである。だまされたとさえいえば、一切の責任から解放され、無条件で正義派になれるように勘ちがいしている人は、もう一度よく顔を洗い直さなければならぬ。
しかも、だまされたもの必ずしも正しくないことを指摘するだけにとどまらず、私はさらに進んで、「だまされるということ自体がすでに一つの悪である」ことを主張したいのである。
だまされるということはもちろん知識の不足からもくるが、半分は信念すなわち意志の薄弱からくるのである。我々は昔から「不明を謝す」という一つの表現を持つている。これは明らかに知能の不足を罪と認める思想にほかならぬ。つまり、だまされるということもまた一つの罪であり、昔から決していばつていいこととは、されていないのである。”
「声高でない」という言葉が称賛として使われていると、カナファーニー『太陽の男たち』の結末を連想する。それは本当に声高ではないものだったのか。小説ではなく紹介文を読んだのみだけど。映画だと結末は同じでも少し演出が違うそうだ。
先週兵庫県知事選で、斎藤の広報を請け負ったとネットで自慢した折田某という人も慶応SFC出身らしい。
慶応SFCというと、竹中平蔵ー中室牧子のウルトラ・ネオリベラインを中心に、「詐欺師達」を次から次へと世間に生み出す印象である。
古市から始まって河合案里、西田亮介、その他スタートアップ屋がごまんといえる。
この折田という人も西宮の富豪の子らしいが、母と一緒にスタートアップ。主に自治体相手に取引と自撮りの動画で広告しているから、これまた税金にたかっている構図である。
それにしても、グラサンつけて税務署から出てきた所を部下に「社長!」と呼ばせ「Oui」と答える演出には引っ繰り返った。このグラサン・スタイルは日本を逃亡した際の三浦瑠麗を真似ているのかと思ったら、「これが自分のスタイル」と云ふ。
スタートアップの動機が「パリのお洒落さが日本には足りない」とやらで「広報」してあげる代わりに税金頂くとはいい度胸である。
しかし電通自体は国と選挙を主要取引にしている訳だから、ご本人は「業界の掟に従っただけかも」。
それにしても国鉄民営化(不動産)・郵政民営化(情報)・派遣解禁(パソナ)と木庭さんの言うように基本的に「闇の勢力」は財政にたかり続けている。しかし、それももう長くはもつまい。
「ヒトラーが1924-29年まではN国の立花なみの「ゴロツキ」と見做されていた」には補足が必要です。
ヒトラーは1923年、ミュンヘンでワイマール共和国打倒の暴動に、旧ドイツ国防軍元帥ルーデンドルフ、旧バイエルン首相カールとともに参加。この際の蜂起は失敗、ヒトラーは大逆罪で逮捕。
しかし、刑務所での待遇は極めて良好、ここでヒトラーは『わが闘争 Mein Kamp』を口述筆記、わずか半年で釈放される。
これはドイツの旧支配層が「反ワイマール」・「反共」の立場からヒトラーに意図的に「情状酌量」したため。また20年代の低迷期にも、ナチスには資本家から大量の資金が流れて組織を維持。
この間、ナチスは表向き「反資本主義」、「国民社会主義」を唱え、自営業者や大学生などの支持を確保していく。
この所謂「ナチス左派」の主張は要するに現代日本の「手取りを増やす」派と変わらない。勿論、反ユダヤ主義・外国人排除も忘れてはいない。
資本家・旧支配層はナチスの「反資本主義」が「似非」であることを知っているがこそ、援助を続けた。
有名な33年の授権法も保守党と「中道」の中央党の賛成を得たからこそ、形式的にも「合法的」に成立した。
況や日本の「極右」と同居している「中道保守」など全く頼りにならない。
ナン・ゴールディンの個展が新ナショナルギャラリーで開幕を迎えた。Strike Germanの立場の彼女が個展するの?と思ってたけれど、オープニングを公開批判の場にするのは良かったと思う。「反ユダヤ主義という言葉が武器化されている」などは私も感じている。ただディレクターのビーゼンバッハが話し始めたら怒声の嵐で遮られ、警察を呼ぶ騒ぎになったのは残念に思う。新ナショナルギャラリーとしてはゴールディンに同意はしないが、異なる意見として討論をしようと提案。でもゴールディンは来ない意向。聞くのが怖いの?と言うなら真っ向から意見を戦わせて欲しい気がする。
確かにドイツの国としての反応は過剰ではあるが、ドイツの人たちがみんなそう言う考えなわけではなく、双方耳を傾けていかないと、イスラム叩き・文化コスト削減をしたいだけの極右を喜ばせるだけだ。
#本日気になったドイツニュース
https://www.artnews.com/art-news/news/nan-goldin-gaza-war-neue-nationalgalerie-opening-controversy-1234724697/
「吉本さんと国里さんは異口同音に、「貴重な証言者が高齢でどんどん減っている」と心配する。「同人誌学」が真の意味で成立するとしたら、ここ数年が最後のチャンスかもしれない」
https://www.yomiuri.co.jp/culture/subcul/20241120-OYT1T50120/#google_vignette
映画と読書と漫ろ歩きを愛する氷河期世代