昨日から話題の朝日新聞星野智幸寄稿、これについているコメントプラスを読んで、いろいろびっくりした。
いずれのコメンテーターも、ひどく「正義」に疲れていたり、「正義」に依存なさっていたご様子だが、それはホントなのか? それってバーナム効果なんじゃねえの?……と思うが、いずれのコメントにも欠けているのが、こうした「正義疲れ」を満喫できる自分ってなんなの?という自問だ。
https://www.asahi.com/articles/ASS8V026WS8VUPQJ006M.html
「「正義」の無謬性に完全服従し全身を預け、個人を重視するはずのリベラル層が「正義」に依存するために個人であることを捨てている状況。」(能條桃子)
おいおい、「個人であることを捨ててる」ホントかよ的に唖然。
「この虚しさを振り切っていくつか論考を書いたのだが、そのとき私の胸に去来したのが「正義」への依存だった。自分は正しい指摘をしている。そう自らを鞭打って、今やるべきことをしなければならないのだと自らを納得させ、進まない筆をなんとか動かした」
(平尾剛)
えっ、それは「正義への依存」なんですか?
「純粋に善や正義を求め、悪を排そうと正義感をかきたてると、集団も自身もカルト化するのになかなか気づかず、ブレーキはかけられないのだろう。」(江川紹子)
はいはい、カルトカルト……
朝日の記事がざわついているが、朝日には炎上をチェックする部門があるのだそうで。
雑誌「地平」9月号で、吉田調書の記事の全文取り消し処分に遭った当該記者2人が寄稿。恐ろしい内実だと思った。
政府からの報道機関へのプレッシャーが強まっていた頃。記事の取り消しは通常、明かなフェイクニュースや剽窃の場合にだけ用いられるそうだ。立て続けに「リスクの高い」記事が同じ時期に3つ出た。吉田調書の記者はそうした状況下で潰された。朝日の社員の中には、取り消し以来挨拶をしても避けがちに返す人がいたり、巻き込まれないように我先に逃げる人がいたり。
その1人宮崎知己記者ふくむ表舞台から立ち退かされたメディア関係者たちが、9/14に話す。
基調講演:長井暁(元NHK-ETV2001番組担当デスク)
報 告:宮崎知己(元朝日新聞「吉田調書」報道担当記者)
コメント:大森淳郎(『ラジオと戦争』著者)
金平茂紀(ジャーナリスト)
白石草(OurPlanet-TV)
司 会:七沢潔 (中央大学法学部客員教授)
申し込み:https://peatix.com/event/4090838/?fbclid=IwY2xjawE7suxleHRuA2FlbQIxMAABHSS6DEpEB9vvmmaMZl5Y-cLfQAkDGS8OuL9ODhEGNPaAhrH5PmS8QHwLng_aem_dOCQxJMfESAb0D_5qg3C2w
「正義の暴走」なんてのは、便利な概念でござんして、どんな思想を持っていようが、付和雷同の結果であろうが、逆に大勢の意見の方が正しかったのに、それをガン無視した結果だろうが、権威とされる何かに唯唯諾諾と従った結果だろうが、逆に権威とされる何かを全く信じなかった結果だろうが、自分の考えで動いた結果だろうが、自分の考えを捨てて大勢に盲従した結果だろうが、ともかく、良くない結果さえ起きれば「正義の暴走」で説明が付いちまう。
要は「正義の暴走」なんてのは「世界は5分前に、まるで遥か昔から存在し続けたかのような初期状態で生まれたんだ」仮説みて〜に大概の事を説明出来るからこそ、逆に何も証明していないし、未来を予測するのには役に立たない。
「正義の暴走」なんてモノが存在するなら、それを防ぐのに一番役に立たねえ代物は「正義の暴走」って概念それ自体だ。
「リベラルに疲れた」とか「正義への依存だ」とかどうしようもねえ反応が多くて、それに疲れるわけですが、この国は、ともかく与党に対する疲れ、というか、与党がとにかく居座っている。メディアも、それに対して何も言わない過去の戦争犯罪も開き直っているし、謝罪したからいいだろ(それは謝罪でも何でもない)とやっている。
選択性夫婦別姓だって、本当にろくでもない理由で反対している鮮明な馬鹿のせいで通らないし、安く使える奴隷としか外国人を扱っていない。
とにかく、ここ数ヶ月は私は上がいたぶってくることに関して、どうしたものかねぇと思っているし、百合子がいくら票を減らしたとは言え、再選してしまったことに対する怒りもある。なんでこんなに絶望的に無関心でいられるんだろうか?
そして、それは難しいことなのだろうか?
余裕がないからこそ、そこに割けるスペースがないのかもしれないけれども、今なお日本はパレスチナに対する一方的な虐殺を黙殺しているし、愚かなほどに巨額な軍事費で兵器を買っているし、終わるはずがない基地を沖縄に建て続けて、兵士が起こした犯罪を黙殺している。目をつぶったとしてもね、それは起こり続けているんだよ。
@hayakawa2600
この手の頭ばっかり口ばっかりで手前は何もしない連中がチヤホヤされていることに私は失望を通り越して怒っています。
さんざ繰り返されている「不正義」に対して何かアクションを起こした事があるんでしょうかね?このちんちくりんは。
私が彼のような人間と相対したら問答無用で頭髪を毟ります。たまには手前で動いてみろよ、と。
↓星野智幸氏は私と同い年。つまり私も60近いわけだが、私はいかにも私の同世代だな、と思う。私より少し上の世代だが合田正人氏が鈴木道彦ゼミの思い出を書いている。
「最近もよく似た状況が繰り広げられているように感じますが、お前は何も分かっていない、そんなことも知らないのか、機動隊との闘いでどうした、俺のせいで何人死んだと思っているんだとか言って、生き方を私のような後輩に教え込もうとする、非常に悪質な状況があった。」(『道の手帳 メルロ=ポンティ』河出書房新社、2010)
私の世代っていうのは、高大が80年代。つまり自分はデモもストも見たことすらないくせに、とにかくこういうもの言いの口真似が好き。左翼をディスれば賢いと思っているが「左翼」は終わったものと思ってて学ぶ必要ないと思っているから何の知識もない。なのでディスりもワンパターン(正義の暴走で危険ダー!内ゲバ!浅間山荘!ポルポト!とか)。結局左翼というのは「見たことがない怖いもの」。で、実際は今更なのだが「アベ政治は流石にまずい」とか言って逆張りの逆張りみたいな感じで恐る恐る勇気を持って「リベラル」になってみたものの「やっぱりこれ以上サヨクになってしまったら危ないと思います!」みたいな感じなのでは……。
2024/8/27付の星野智幸の文章
https://www.asahi.com/articles/DA3S16019473.html
複数の人がリンクしながら好意的に書いているのを読んだのだけど、よさがいまいちわからなくて、話の起点になっているらしい2013/12/25付の文章も都合読んだ。
https://www.asahi.com/articles/DA3S16019473.html
それで、ちょっと呆れているのですが、すみません、どうして10年たってこういう心境になっている、この人の言葉のどこがありがたいのか、余計にわからないですよ。。。
色々わからないですが、「洗脳」だとか「カルト」だとかこんな雑に言われても。
それで、この雑さが歓迎される界隈へのアピールで、トランス排除主義な人たちが、トランス人権を主張しているみなす人たちをひとまとめにして、「カルト」呼ばわりしているのですが、星野智幸の上記の寄稿程度の修辞が褒められてしまうのだとすると、あの種の攻撃は有効ということで、諸々いやな風潮だなと思う。
BTs
件の作家氏、書いていることのナイーブぶりに、若い人なのかと思いきや、1965年生まれで60才近い方でびっくりしました。
文中で例に挙がっている「外国人差別反対」とか「生産性で人を判断するのはダメ」とか、そんなことは人として当たり前の発言ではないでしょうか。
この程度の発言をするだけで、そんなに葛藤があって苦しかったのなら、もともと関心の比重が「正しさ」の追及ではなく、「マジョリティの側にいること」のほうにあるのでは?という感じしかしません。
「個人語」としての「文学」とやらをやることを決めたなら、そこから「消費」され尽くされることのない強靱な言葉を発せられると信じられるなら、どうぞ、そうしてください。
社会的弱者の味方をするという、この程度のマイノリティ性にすら耐えられず、「正義カルトの左翼が悪い」とわら人形をつくって、闘わない言い訳をしながら「マジョリティ」のなかに座り込んで発信し続けようとする人に、そんな強度の文学が達成できるとは私には到底信じられませんが。
「作家」氏がそうやって言い訳と悪口をこね回しているあいだ、
私たちは、少しでもまともな社会をつくるための歩みをそれぞれに進めていくだけです。
泉と野田って、立憲に投票するかもしれない左派の中でも一番嫌われてる2人じゃないの。どちらも立憲の足を引っ張るトロイの木馬的な動きしかしたことない。なんでよりにもよってこの2人なの。
これに比べれば枝野はマシだが、この人は決定的に経済がダメな上に、理解する気もないのではなかろうか。丸投げ。私は財政赤字に対してはそれなりに注意を要すると考える点でれいわと完全に意見が一致するわけではないが、それにしたって立憲の中心メンバーの経済認識はダメすぎる。
総裁選、代表選に出るメンツ、年を追うごとにレベルが下がる。自民も酷いが、小泉がマシに見えるレベルって、いくらなんでもそんなのあるのか、って感じ。ほんとになんの希望もないな、この国。
蛇足:70年代の論壇誌に散見される「セクト」批判はテキトー「日本人」論とか「集団主義な日本人」観とかも援用されながら展開されているものがあったが、そんな民族的特性に還元しなくても、ある種の「政治」に必然的につきまとう普遍性を持ったものではなかったか。
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