社会の党派的分断が最近起こったことであるかのように語られているの、珍しくもないありふれたものだが、目にするたびに驚く。

「現在のぼくは、政治や社会を語るこういった言葉が、単に消費されるだけで、分断されていくばかりの社会において、敵か味方かを判断する材料でしかなくなっていると感じています。」(寄稿)言葉を消費されて 作家・星野智幸 asahi.com/articles/DA3S1601947

もう150年くらいそうじゃんと言いたくなるところだが、彼が生きてきた数十年に限ってみても、最近まで「敵」とみなされてこなかったんだね感を持つ。

「「敵」と見なされれば攻撃の口実にされ、「味方」と見なされれば、共感したい人たちの読みたい方向に強引に読まれるばかり。」

このへんのナショナリズムについての認識から、「一人ひとりが自分の中にある依存性を見つめる必要がある」という方向性まで、なんともピンボケというか、なんつーか

「長年の経済的停滞等で疲弊したところに、東日本大震災と原発事故が起こって自分を支えられなくなった日本のマジョリティーの人たちは、絶対に傷つかないアイデンティティーとして「日本人」という自己意識にすがるようになった。個人であることを捨て、「日本人」という集合的アイデンティティーに溶け込めば、居場所ができるから。それは依存症の一形態であるが、誰もが一斉に依存しているから自覚はない。日本社会がそうしてカルト化していく傾向を変えるためには、強権的な政権への批判だけでは不十分で、一人ひとりが自分の中にある依存性を見つめる必要がある」

そもそもここでは、政策的に行われてきた官製ナショナリズムの鼓吹というモメントが消え、〈一人ひとり〉が持つ〈自分の中にある依存性〉に切り縮められている。これって、「日本スゴイ」コンテンツの流行を、受け手側がいだいた「不安」に理由を見出すありふれた言説と同じ匂いがする。

「長年の経済的停滞等で疲弊したところに、東日本大震災と原発事故が起こって自分を支えられなくなった日本のマジョリティーの人たちは、絶対に傷つかないアイデンティティーとして「日本人」という自己意識にすがるようになった」

本文には「カルト化」「カルト集団」「カルト」と〈カルト〉ワードが7回も頻出している。カルトカルトと連呼すると、それぞれの政治集団のロジックやイデオロギーを内在的に批判していったり、具体的な政治過程をあとづけていったりするよりも、〈無謬性を信じる閉鎖的な集団〉だと描きだしておしまいにできるので楽ちんだ。まことに凡庸かつ安易な道ではないか。

かつて埴谷雄高はこう書いた。

「これまでの政治の意志もまた最も単純で簡潔な悪しき箴言で示すことができるのであって、その内容は、これまで数千年の間つねに同じであった。
 やつは敵である。敵を殺せ」
(「権力について」1958年、『幻視のなかの政治』所収)

この階級政治の原理が「敵を識別する緊張が政治の歴史をつらぬく緊張のすべて」(同上)をはらむのだが、ではその〈政治〉をえぐる「文学の言葉」は、星野寄稿にあるのだろうか?

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蛇足:70年代の論壇誌に散見される「セクト」批判はテキトー「日本人」論とか「集団主義な日本人」観とかも援用されながら展開されているものがあったが、そんな民族的特性に還元しなくても、ある種の「政治」に必然的につきまとう普遍性を持ったものではなかったか。

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