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12月に買った本。
バーナディン・エヴァリスト『少女、女、ほか』の語りが素晴らしくて、最高の群像劇でした。今年の個人的ベスト本。

エリザベス・ストラウト『ああ、ウィリアム!』もとても良かった。
ストラウトが書く、時が経ち今となっては遠くて曖昧な、しかし確かな感触を伴って自分の裡に浮かび上がってくる記憶の断片を積み重ねてゆく語り方、やはりめちゃくちゃ好きです。

ニナ・ラクール『イエルバブエナ』は、年末年始休暇に読もうと取ってある。訳者の吉田育未さんがアナウンスしてくださった時から楽しみにしていました。

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◆バーナディン・エヴァリスト『少女、女、ほか』(渡辺佐智江 訳)
◆カン・ファギル『大仏ホテルの幽霊』(小山内園子 訳)
◆エリザベス・ストラウト『ああ、ウィリアム!』(小川高義 訳)
◆マイカ・ラジャノフ、スコット・ドウェイン『ノンバイナリー』(山本晶子 訳)
◆ニナ・ラクール『イエルバブエナ』(吉田育未 訳)
◆ピーター・スワンソン『だからダスティンは死んだ』(務台夏子 訳)
◆岸本佐知子『ひみつのしつもん』
◆小学館編集部編『超短編!大どんでん返しSpecial』
◆皆川博子『インタヴュー・ウィズ・ザ・プリズナー』

森山至貴×能町みね子『慣れろ、おちょくれ、踏み外せ 性と身体をめぐるクィアな対話』

それと、批判や議論が「行き過ぎ」てしまうという表現は良くない、という話も印象に残った。
「行き過ぎているかじゃなくて、端的に間違っているかを考えるべき。「行き過ぎ」は便利だけど、実際には「事の悪さについてちゃんと考える言葉としては使えない。「程度」の問題ではないのに、手間を惜しんで雑な批判となる。」

そして同じく、「極論」もやめよう、と。
「検討の対象にしないこと、正当性があるような感じにもせず、素朴な偏見をさも後付けで理由があるように見せている「極論」は「論」をまともに取り上げず、「知ったことか」と言い返すことも必要。「一理あるって思われたいんだろうけど、ないからね」と土俵に乗らないこと。」

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森山至貴×能町みね子『慣れろ、おちょくれ、踏み外せ 性と身体をめぐるクィアな対話』

読んでいて驚いたのが、世の中の「普通の人」にとっては、性別二元論に基づく社会規範についてその中身を認識すること自体が難しいみたいで…という話。
そういう人はセクシュアル・マイノリティを「男でも女でもない人」と思っている(!?)から、男と女とそれ以外、のそれ以外にセクマイが全部入っているので、まずセクマイはそれぞれ女性で、男性で、と飲み込んでもらったのちに、「でもね、こうした性別二元論には当てはまらない生き方をする人がいますよ」と理解してもらわないといけない、と。
「男と女から排除されている人を男と女に戻し、その上でノンバイナリーなど、みんなが二元論で語られるわけじゃないんだよと言わなければならない。」と話していて、そこからなんだ…!?とビックリしてしまった。

でも確かに、『トランスジェンダー入門』を読んだ方が悪意は全く無く「ジェンダーの人」という言い方をしていたり、「ジェンダーと同性愛者の違いをわかりやすく説明していた」と書いており困惑したことを思い出した。
その方は現代作家の海外文学作品をたくさん読んでいる人だったので余計に衝撃を受けたのだけど、これは学校等で正しく学ぶ機会を設けないと変わらないのかな…

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森山至貴×能町みね子『慣れろ、おちょくれ、踏み外せ 性と身体をめぐるクィアな対話』

ジェンダーやセクシュアリティのことで悩んだり、社会規範に対する居心地の悪さを感じているクィアの人たちへ、まず一番にこれを読むと良いよ!とお勧めできる本。
この本を読むと自分のラベルを発見できるとか確信を持つとか、そういうものではないのだけれど、お二人の対話を通して見え方が少し変わったり腹落ちできたり、気持ちが楽になったりするのではないかと思う。

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「紀伊國屋じんぶん大賞2023」、私が投票したのはこの3冊でした。

◆カイラ・シュラー『ホワイト・フェミニズムを解体する インターセクショナル・フェミニズムによる対抗史』(飯野由里子 監訳/川副智子 訳)

◆アミア・スリニヴァサン『セックスする権利』(山田文 訳)

◆森山至貴×能町みね子『慣れろ、おちょくれ、踏み外せ 性と身体をめぐるクィアな対話』(←19位にランクイン)

『ホワイト・フェミニズムを解体する』は、マジョリティ女性の成功や特権の獲得のために周縁に置かれ、抑圧され犠牲となってきたマイノリティ女性による200年間の対抗史という、フェミニズムにおいて知るべき歴史と今考えるべき事柄が詰まりに詰まった濃密な、今年一番衝撃を受けた本でした。

『セックスする権利』は、著者が「必要に応じて不快と葛藤の中にとどまろうと試みた」と言う通り、分かりやすい形での明確な答えを示すものではなく、それどころかある意味でとても居心地の悪いこの一連のエッセイこそとても重要で、かつ面白く、素晴らしい語りだった。

しかし『VOGUE』、処分するにあたり中身を見ていたら、ちょっと本当に信じられないほどに白人だらけなことに今更ながら慄いてしまった。
この業界おかしいですよ…(買い続けることは5年ほど前に止められたので、今は変わっているのかもしれない)。

これを5年前にはここまで変だと感じていなかった自分にもショック…
当時もドラマや映画での人種的に多様なキャスティングかどうかはすごく気になっていたのに、モード誌には鈍感だったなんて何でなんだ。

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会社の激務とその他諸々のストレスで精神的にギリギリだった時期の証のようだった、数年分の『VOGUE』を全冊処分した。あの真っ赤な背表紙が棚からごっそり消えた解放感がすごい。

学生の頃は好きなアーティストや役者のインタビューが載っている時だけ買っていた雑誌を、就職後にストレス行動としてVOGUE、ELLE、ハーパース・バザー 、FIGARO、GINZA、Numero、pen、Casaを毎月全部買うようになった。
読む時間など無く一度も開きさえしない雑誌を買い続けるのはおかしいと分かっていても、買うのを止めることは「無駄と認めること」であり「自分で自分を否定する恐怖」があって出来ない、みたいな気持ちだった。

引越しの際にVOGUE以外は全て処分したが、結局3年間分ほどだけは残したVOGUEも今日ようやく手放せた。
今振り返ると、わざわざお金と労力をかけてまで新居へVOGUEを運んだ心境が謎というか自分のことながら怖くなるが、まあ時間が必要だったんだなあと。

ただ今思うと『Casa』や『pen』は、特集によっては取っておけば良かったな。

『このミステリーがすごい!』で、今年のベスト本ランキング海外編15位にアン・クリーヴス『哀惜』(高山真由美 訳)が入っていたが、編集部による紹介文に「声高にならないLGBTQの扱いも見事。」と書いてあり、最悪だった……(主人公である男性警部とその夫の描写についてのことと思われる)。
その「声高」の使い方、偏見が出てしまっているヤバイ文章表現だと編集者の人は分かってないんだ!?ということが、幻滅するどころかもう怖いよ。
「LGBTQ要素を主張しすぎてないから良かった」とかと同じで、それぜんぜん褒め言葉になってないですよ、偏見が漏れ出てますよ。
まあ単なる誤用なのかもしれないけど……でもすでに差別する人たちの頻出語みたいになってるのに。

海外編1位にはS・A・コスビー『頬に哀しみを刻め』(同性カップルの息子たちを殺害された、ホモフォーブな父親2人の贖罪と復讐譚)が選ばれていたけれど、それでもまだまだそんな感じなんだなあ……と思ってしまった。

その「議論」でマイノリティが追い詰められ殺されるということについて考えてないし、それをどれだけ言葉を尽くしても分かってもらえないし決定的に欠いているんだな、ということがこの数日で見えてすごく虚しい。
でもさっきフェミニストの先輩が「フェミニストに擬態した差別者が分かって良かった、サクッとブロックしよ!😉」って言ってくれてちょっと元気出た。

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「検証」や「議論」など既にされ尽くされている、その上で悪質なデマやヘイトを広める有害な本であると認定されているような本を、そしてそのことをこれだけ多くの人が具体的に説明しているにもかかわらず、それについては完全に無視(見えているくせに)して、「検証するためにも邦訳は出されるべき」などと今わざわざ言及するような人も、その意見に賛同してしまう人も、どちらも可視化されてめちゃくちゃキツい

BT、ほんとにどういう意図でこんな変更をしてしまうんだろう。作品から受け取るものがまるで変わってしまうよ……

ユキ さんがブースト

今現在大変な衝撃を受けているのですが、去年岩波少年文庫から発刊された『小さな手 ペティットおばさんの怪談』という英米の怪奇小説アンソロジー、表題作は以前創元推理文庫から平井呈一編・訳の『恐怖の愉しみ』下巻に収録された『一対の手』という短編の新訳なんです。訳は金原瑞人。

それでこれ平井版だと語り手兼主役のペティットさんは高齢の独身女性で、岩波少年文庫版では「ミセス・ル・ペティット」になってる。先ほど岩波版を初めて読んでえええ、と思い、『恐怖の愉しみ』が家に上巻しかなくて確認できなかったのですが、ネットで原文を探してみたところ「Miss Le Petyt」なんですよ。

……なんでこんなことするんだろう。新訳で若い人にも広く知られるのは素晴らしいことだけど、私は独身で幸せなまま年を取ったペティットさんのことが大好きで、物語にも一人である不安と喜びが両方ちりばめられているのに。これ物語の趣も全然違ってきちゃうじゃん。もう腹が立つ以前にすごく悲しい。

翻訳は平井呈一は古めかしさがあるけれど、闊達な語り口が素晴らしいしラスト一行の切れ味の鋭さに関しては金原訳は到底及びません。岩波がこんなことするなんで、本当に悲しい。

ゼクシィの同性カップルを起用した広告、良い変化が始まってるってことでもあるとは思うのだけど、でもなあ…

このメッセージと表現方法じゃあ、新自由主義のもとに「金になる」マイノリティを活用しようとする、これこそまさに「ピンク・マネー」じゃんね…としか正直思えなかったのですが…

大企業による大々的な広告が多くの人の目に触れることでの意識の変化・社会の変化への期待はできるのかもしれないけど、制度変革や婚姻の平等はなおざりにしたまま、
「日本はすでにゲイ・フレンドリーで性的少数者への差別なんてないし、マイノリティの問題はもはや「個人的な問題」だから、根本的な制度問題の解決や貧困支援などの公的介入は必要ないよね」
みたいに考える人が増えるような方向に向かうだけなんじゃないか、そういう雰囲気をますます醸成させてしまうんじゃないか、って辛くなる

マストドンの公式アプリ、改行が反映される時とされない時(たいていは反映されないけども)があるのは何でなんだろう…

トニ・モリスン『暗闇に戯れて 白さと文学的想像力』(都甲幸治 訳)

アメリカ文学史における「白人男性を中心とした思考」とその構造を分析する濃密な批評で、130ページほどだが一読では理解しきれず、ゆっくり読みかえしている。

トニ・モリスンは『タール・ベイビー』しか読んだことがなかったのだけど、少し前にサイディヤ・ハートマンの『母を失うこと 大西洋奴隷航路をたどる旅』を読んだことが歴史的背景を理解する助けになった。

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11月に買った本。
トニ・モリスンの『暗闇に戯れて 白さと文学的想像力』が素晴らしかった。
今年最初の読書がモアメド・ムブガル・サールの『純粋な人間たち』だったので、『人類の深奥に秘められた記憶』も年内に読みたいな。
今はフォロイーさんに教えてもらった、早尾貴紀さんの『ユダヤとイスラエルのあいだ 民族/国民のアポリア』を読んでいます。

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◆モアメド・ムブガル・サール『人類の深奥に秘められた記憶』
◆早尾貴紀『ユダヤとイスラエルのあいだ 民族/国民のアポリア』
◆マリーケ・ビッグ『性差別の医学史 医療はいかに女性たちを見捨ててきたか』
◆三木那由他『言葉の風景、哲学のレンズ』
◆波戸岡景太『スーザン・ソンタグ 「脆さ」にあらがう思想』
◆児玉真美『安楽死が合法の国で起こっていること』
◆ガッサーン・カナファーニー『ハイファに戻って/太陽の男たち』
◆トニ・モリスン『暗闇に戯れて 白さと文学的想像力』
◆井上雅彦監修『乗物綺談』

マリーケ・ビッグ『性差別の医学史』

ちなみにグウィネス・パルトロウのウェルネス商売にも触れられていて、私もパルトロウの“翡翠の卵”やヤバイ香りキャンドルのことは知っていたけれど、これをドン引きで終わらせちゃダメだった…と反省した。

遡れば古代ギリシャからずっと行われてきた、「女性の内部が汚れている(→だから綺麗にしないとダメ)」という、家父長制に基づく「身体的神話」の健康観を再生産する、最低最悪で有害な商売だった。

女性が自らの身体をセルフコントロールしたいという感覚を利用して、エンパワメントの名を借りて女性の健康への不安を煽っている…。

しかしパルトロウの非科学的で性差別的な製品が普及してしまうのは、不安の解決策を求めても応えてくれる医師がおらず、女性の健康がないがしろにされ周縁に追いやられる現状があるため。
だからそうした非科学的な「膣の神話」に立ち返ってしまう女性に対して無知とバカにするのは絶対に違うから、著者がその点を明確にしてくれていたことに安心した。

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マリーケ・ビッグ『性差別の医学史 医療はいかに女性たちを見捨ててきたか』(片桐恵理子 訳)を読みました。

常に男性を基準として発展してきた医学の領域について、様々な事例をもって論じながら「医学はジェンダーニュートラル」という欺瞞を暴いてゆくエッセイ。
ジェンダーバイアスによって周縁に追いやられ、医療が遅れ健康を害する「男性以外の身体」について、男女二元論から脱却しその先を目指さんとする、誠実でかつ面白く魅力的な語りがめちゃ良かったです!

三木那由他『言葉の風景、哲学のレンズ』を読みました。

日常で直面する、言葉やコミュニケーションに感じた違和感を「今、何が引っ掛かったんだろう?」とスルーせずに見つめ直すこと。
三木さんが哲学のレンズを通して行う丁寧な思索をこうして読んでいると、自分自身の日々の景色もクリアになっていくような興奮があり、めちゃくちゃ面白い。

昨年、母に三木さんの前作『言葉の展望台』を読んでもらって読後にたくさん話をしたのだが、それ以来、クィアな話題を何でも共有して話せるようになった。
元々母とは倫理観も社会問題の認識にも齟齬が無く、これまでもSNS上の差別言説への怒りを聞いてもらったり、一緒にドラマ『POSE』を観たりしていたけれど、それでもすごく変化があった。

自分が以前にもまして「安心できる食卓」と感じられているのは間違いなくこの本がキッカケだったことを、「一緒に生きていくために」の章を読んだ時に思い出した。

『安楽死が合法の国で起こっていること』

重い障害を持つお子さんの親でもある児玉さんの、医療職と患者・家族の意識のギャップについての感覚と言葉には、私も大学後から10年ほど家族のケアラーをしているので、ものすごく身につまされた。

そしてコロナ禍において、重症化リスクが高い家族のケアラーの人たちが「トリアージを導入してほしい」と求める願いを知った児玉さんが、「なんと切なく悲しい誤解なのだろう…」と暗澹となった気持ち、本当に辛くて悲しくなった。
医療資源が限られトリアージで治療優先度を決めなければならない状況が万一起きた時、要介護の高齢者や障害者はけして優先されないのだろうから。

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