児玉真美『安楽死が合法の国で起こっていること』を読みました。

医師の幇助による自死が可能な国々で起きている、私が安楽死というものへのイメージとして持っていた「耐えがたい痛みに苦しむ終末期の人が救済策として望む選択」とはかけ離れた現状と、様々な実態についての懸念がまとめられています。

法的要件のルールがどんどん緩和され、社会的弱者への圧力とならないように設けられていたセーフガードが取り払われながら安楽死の対象者が拡大してゆく中、医療現場では安楽死容認の指標が「救命できるか否か」から「QOL(生活の質)の低さ」へと変化し始めている実情などが示されている。
そして安楽死対象者の拡大と指標の変質は、「障害がありQOLが低い生には尊厳が無い」という価値観が世の中に浸透していくことに繋がり、命の選別と切り捨てへ向かうという強い懸念も。

医療や福祉の支援があれば生きられる人たちへ、社会福祉が尽くされないまま自死を解決策として差し出す恐ろしい現実がすぐそこにある今、児玉さんの「安楽死は「賛成か反対か」という粗雑な問題設定で語れるものではない」という言葉が重く響きました。

自死の幇助をめぐる討論を描いた戯曲、フェルディナント・フォン・シーラッハ『神』を夏に読んだすぐ後に、ちょうどこの児玉さんの『安楽死が合法の国で起こっていること』が出ることを知り、合わせて読みたいと思い発売を待っていた。

『神』では人間の自由意思と生き方が議論の中心にあったけれど、シーラッハが俎上に載せて交わされた意見や懸念(ドイツでは2020年に自死幇助禁止が裁判所により覆され、具体的な法整備の議論はこれからという状況)は、他の国々ではすでにそれらを遥かに通り越した実態が出来つつあり、更に加速しようとしていることが分かり恐ろしくなった。

『神』での、「あなたはこの自死の幇助に賛成か?反対か?」と読者が結論を下すコンセプトが、もはや問題に思える。

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『安楽死が合法の国で起こっていること』

重い障害を持つお子さんの親でもある児玉さんの、医療職と患者・家族の意識のギャップについての感覚と言葉には、私も大学後から10年ほど家族のケアラーをしているので、ものすごく身につまされた。

そしてコロナ禍において、重症化リスクが高い家族のケアラーの人たちが「トリアージを導入してほしい」と求める願いを知った児玉さんが、「なんと切なく悲しい誤解なのだろう…」と暗澹となった気持ち、本当に辛くて悲しくなった。
医療資源が限られトリアージで治療優先度を決めなければならない状況が万一起きた時、要介護の高齢者や障害者はけして優先されないのだろうから。

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