森山至貴×能町みね子『慣れろ、おちょくれ、踏み外せ 性と身体をめぐるクィアな対話』
それと、批判や議論が「行き過ぎ」てしまうという表現は良くない、という話も印象に残った。
「行き過ぎているかじゃなくて、端的に間違っているかを考えるべき。「行き過ぎ」は便利だけど、実際には「事の悪さについてちゃんと考える言葉としては使えない。「程度」の問題ではないのに、手間を惜しんで雑な批判となる。」
そして同じく、「極論」もやめよう、と。
「検討の対象にしないこと、正当性があるような感じにもせず、素朴な偏見をさも後付けで理由があるように見せている「極論」は「論」をまともに取り上げず、「知ったことか」と言い返すことも必要。「一理あるって思われたいんだろうけど、ないからね」と土俵に乗らないこと。」
森山至貴×能町みね子『慣れろ、おちょくれ、踏み外せ 性と身体をめぐるクィアな対話』
読んでいて驚いたのが、世の中の「普通の人」にとっては、性別二元論に基づく社会規範についてその中身を認識すること自体が難しいみたいで…という話。
そういう人はセクシュアル・マイノリティを「男でも女でもない人」と思っている(!?)から、男と女とそれ以外、のそれ以外にセクマイが全部入っているので、まずセクマイはそれぞれ女性で、男性で、と飲み込んでもらったのちに、「でもね、こうした性別二元論には当てはまらない生き方をする人がいますよ」と理解してもらわないといけない、と。
「男と女から排除されている人を男と女に戻し、その上でノンバイナリーなど、みんなが二元論で語られるわけじゃないんだよと言わなければならない。」と話していて、そこからなんだ…!?とビックリしてしまった。
でも確かに、『トランスジェンダー入門』を読んだ方が悪意は全く無く「ジェンダーの人」という言い方をしていたり、「ジェンダーと同性愛者の違いをわかりやすく説明していた」と書いており困惑したことを思い出した。
その方は現代作家の海外文学作品をたくさん読んでいる人だったので余計に衝撃を受けたのだけど、これは学校等で正しく学ぶ機会を設けないと変わらないのかな…
#読書