恋するプリテンダーがいいのは「どうせ幸せになるふたりの話を見る幸せ」に加えて「不幸せな人がそもそもいない」世界にあるんじゃないかなーと思って、なんかほろっとしちゃった。フィジカルギャグ多めで気が利いてるとこと鈍臭いとこのバランスは全然完璧ではない、でもこの「いい感じ」は好きだなあと思った。バンビみたいなシドニー・スウィーニー、懸念のグレン・パウエルとの年齢差も劇中言及あるし何しろグレンさんがちゃんと純情に見えるのでそんなに気にならなかった。とにかく「陽」な映画が減ってるのでこのアメコメの眩しき中庸は大事にされてってほしい。
両親たちもお姉ちゃんたちも友達も「はー、この人すきー」のパートナーと一緒でみんな幸せそうなのね。元カレ元カノも友達も良い奴でそれ以上でも以下でもないのである。なので映画自体がアッパーなんである。
まあ問題の処理の仕方はロマンティックなとこ以外はあんまり良くないし、ステイ・フレンズほどの傑作じゃないけど(あれはほら、選曲がドンピシャとまではいかずとも世代的にグッとくるものあったし…)、「恋のからさわぎ」ほどに良質なドラマはないけどさ。でもこのテンションの「見た目のよい人たちがわちゃわちゃイチャイチャしてるのたーのしー!」のなんでもなさが、今の私にはちょうどよかったのだ。
ゴジラxコング 新たなる帝国について。ほめてはいない感想。
前作は「ゴジラが出てくるところはだいたい良かった。コングだけのところはつまらなかった」と書いてたことすら忘れてるくらいどうでもよかったんですが(髑髏島段階から「コングパイセン」というキャラの消費のされ方がヤダ、「巨獣」の人間性に振るの好きじゃない)頭の悪い「おこったぞー!」の大雑把さにシフトしてるこっちのほうがどっちつかずだった前作よりは好き。ダメ出しさせないくらい全方面に「見たことある」をひたすらサイズアップし、カイジューモリモリにして代物を「どうだーっ」と自信満々に突き出して堂々とヒットさせてるアダム・ウィンガードの胆力に学びたい。
とはいえ19世紀SFまで戻るのかよというか80年代アドベンチャー映画的な雑みは予想外に良かったと思う。しかしまあ「こういうのは筋はあってなきに等しい、とはいわず、アクションのために用意する筋としてつまらない、が正しいと思う」という感想もまた変わらず。
やはり我が家ではキングオブモンスターズが解釈一致なのである。最高かっこいいゴジラを撮るんじゃという覚悟が決まっていたし、わけのわからんものだから神なんよという態度があった。超自然の暴力性に役者の顔力で立ち向かうあのあり方が私は好きです。
異人たち、微妙に気になってるのがうっすら地鳴りみたいなゴゴゴゴ…音で(ウィークエンドにもさざなみにも出てきたと思う)あれこの映画のサウンドデザインだったのか、隣のスクリーンでかかってたゴジラコングの音だったのかわからないんだよな…ゴジコンも相当ドカドカしてそうだから…アイアンクローのときはオッペンハイマーのゴゴゴゴ揺れが隣からきてた気がする(ショーン・ダーキンもゴゴゴゴ…音使う人だとはいえたぶんあれは本編とは関係なかった)、最近これ多いな…まあ真相はどっちでもいいや、映画が良かったから余裕
やっと映画館に復帰。ということで『異人たち』見てきた、しみじみとよかった。ファーストシーンからガラスや鏡に映る姿の無限の広がりに人間の哀しさがうつっている。ありえたかもしれない複数の人生。いろんなことが曖昧なままなのも物語のあり方として好きだった。そうだったらいいのにな、そうだったらいいのにな…アイアンクローに並ぶタイトルの良さ(わたしたちみんな!)も光る。
アンドリュー・ヘイは「親密な他人」(異人というより他人のニュアンスが生まれている気がした)の話が本当にうまいですね。みんな後悔してるし、みんなさみしいし、やさしくしたいしやさしくされたい、を抱えている、その感情は生死を問わず存在し続ける、そうでしょう?
台詞で言及されることもあって、キングの影響も強く感じられる(ホラーとは愛の物語である)ゴーストストーリーとして非常に好ましく見ました。私はアフターサンのよさはよく分からなかったけど(ポール・メスカル以外にも共通項は多いと思う)こっちは素直に好き。「足りることなんてないのよ」に込められるすべて。
しかしアンスコさん本当にうまいな、顔がこどもになってるときと普段の表情とどっちつかずになってるときが全部違う…その潤んだ目や泣き出すのを堪えるような口元にただただ見入ってしまうのだった。
体調不良の話ばかりしてますが、昨日からの発疹が広がり続けて本当に全身が大変なことになってしまった。薬塗ってくれたナースさんが「わあ、本当に全身…」って同情してくれた…つらーい
昨夜は『女系家族』見て大映だー!大映だー!と喜んでいた。大問屋の三姉妹の遺産相続をめぐるまあ凄まじい戦いの話、台詞ひとつひとつがギチギチに性格が悪くて、超流麗なキャメラ(相続したものをひとつひとつ映し出す、その画面のきっぱりとした綺麗さ、これみよがしな季節の風景などどこにも置かない豪奢)、そして圧倒的怪物的な役者力とまあめっぽう面白い。優れた女性映画は優れた男性映画になるのが常なんである。二代目鴈治郎さまと北林谷栄さまのとこ全部最高だったわねえ…
金と家と力があれば女だってそりゃパワーポリティクスやるに決まってるだろ、下々の者は人とも思わんだろ、最初から勝てない側は男も女も有利な算段のためならなんでもやるだろ、という当たり前のことをやっているのがすき。ありそうにみえて全然情念のドロドロがない、即物的なとこがいいのよな…女は怖い系の話では全然なく、どこまでも酷い話なのだが妙に爽やかなとこがある。痛めつけられるあやや様のとこは「あやや様がそのままで済ませるわけがないだろ」と思っていてもちょっとあまりにも凄まじいのでギエーッとなるが、まあ人だと思ってなければなんだってしますよ女だって人だからねえ。なんたってここは血統の国なんである。
朝ドラ楽しく見てるのだが、いちばん近いのプリティ・リーグなのではという気がする
『カルメン故郷に帰る』を実は見てなかった(旧作邦画の有名なやつほど見てない)ので見たんですが、なんかギャルという存在のクィアネス…という言葉が浮かんでくるような話がバルビゾン派の絵画みたいな(柴を背負ったおとうちゃんとおねえちゃんの並ぶとこのショットとか、大量の馬とか牛とか、あの雲のすごさ)世界に放り込まれて噛み合わないままで「それでいいのか???」で終わる力技の怪作でびっくり。これが国内初の総天然色映画だったの、だいぶカオスな時代だったのを感じるな…盲目の先生のオルガンエピソードだけ大真面目なのもなんか変…
家出して東京に行って人気ストリッパーになった娘が友達と帰ってきて村は大騒ぎ、という話なんだが全然心を開いた交流が成立してない、そこが別にネガティブにも描かれてない…というのはある意味新鮮ではある。というか2人が完全に「女装した女」でその過剰さが笑いになるの、ドラァグじゃん…?
しかしカルメンちゃんとアケミちゃんのトンチキなノリをどうということもなく「いいんじゃねーの?金ももらえるし!ありがたいね!」で受け止めてくれるお姉さんの望月優子様の動きの良さ!また大好きになっちゃうな。これ高島屋よ!は流石に笑った。プロダクトプレイスメントとかそういうレベルじゃない宣伝台詞、好き…
「パスト ライブス」の話。多少展開に触れています
全体の印象としては悪くないんだけど、想像していた抑制によって情動を高める感じとはだいぶ違ったな。台詞だけでなく静かなシーンでも全部「説明的なもの」が映っているので……そこまでエモくしなくても……でもリファレンスがエターナル・サンシャインなら当然といえば当然か。
現在パートのグレタ・リーの動きや表情が「東アジアっぽくない」感じになってたのはすごくよかった。脚の投げ出し方とか、ハグの仕方とか、なんか「ナヨン」はあんなふうにしなかっただろうな、「ノラ」なんだろうな、って思ったよ。そういう身体や表情の話としても伝統的すれ違いロマンス劇の今の形としても悪くない。
一方でこの話にしては饒舌すぎるのでは、というのがなあ。そういう意味では冒頭がいちばん素晴らしかったな。あの「外の声」から「内側」に入っていく、とても美しい幕開け。が、どんどん説明が増える。
(ここまであますところなく全部伝えなくても…)と思ったあとで、でもこの映画はこれでいいのかな、とも。「全部伝える」側の国にスライドした人が最後の最後に示す「言えなかった/動けなかった」(東アジア的な)身体。それでもフラッシュバックをなぜ1回にしなかったのか疑問は残り「じゃあ」で終われないのかという気持ちも残るけど……
バキバキの体が肉襦袢着てるみたいですっごい居心地悪そう、そのうえいつも頬が上気している感、ちょっと気持ち悪い真面目な「みんなでずっと遊んでたいのに」なこどものせつなさ。フィルムの赤みの強い感じが「あの時代」の微熱感になり、それが彼の「居心地の悪い身体」にあるものとしてとてもよくあっていたと思う。ある時代のイメージ。ボワボワとした熱っぽさとぼんやりした感覚(ダーキンはいやーなズームとぼんやり映っているものを使うのがホントにうまい)があるのも「本物」性が生まれた理由なんだよなあ。あの人なら「家族ー!」以外のことは何もないであろうよ、という存在の悲しみと優しさ(不器用という光)を体現するには20代のピチピチではない彼だからこそよかったのだよなー。いや、良い俳優だなあ。見入っちゃったよ。
「悲劇の瞬間」をことごとく外し続ける作劇に挟み込まれたベストショットはやはりあの階段です。最強ゴースト映画!といいつつ、ただ路上の光が写っているだけのシーンの長さ。後ろでゆらめくのは流れ星かホタルか。終盤、決定的なことがあった後に家の扉から離れていくズームアウトとかもとにかくうまいなー、な映画でした。
『アイアンクロー』は「最強ファミリー」のファンタジーをアイアンクローに集約しているあたりも含めてメロドラマとして非常に堅実なつくりで、たぶん今年いちばんの「うまい」新作枠なんじゃないだろか。そのぶんやや食い足りないかも?と思いつつ、改めて各シーンを思い出すとよくできてたなあ…としみじみ。時間の流れが少しわかりにくいところも含め、これも「主観」の話なのだな。
過去作と最も差異を感じたのは(あと『フォックスキャッチャー』も想像してたのでそこと比較して)カラーになったとたんに低温感がなくなって、そのまま常に「温度」が微熱気味に保たれていたこと。今回も撮影はエルデーイ・マーチャーシュ。基本的には光と影を同一人物上に乗せるというのが繰り返される&大変エネルギッシュにワンショットでムーブを押さえていく。ただときどきダーキン印の不穏な「何も映ってないのに怖い」ショットがふっと挟まれて温度が下がるのがスリリング。とはいえ、この映画は「あたたかい」、だからこそ怖くて悲しい。
で、この「微熱っぽい」時代性も含めた悲劇を処理するにあたってザック・エフロンの今の年齢が効いてる気がした。顔と体と動きと表情が何か全部かみあってないアンバランス、と微熱感のマッチ。あの時代の「神話を信じている少年」がまっすぐすぎる目に宿っていた
オゾンの「ホームドラマ」見た感想。結末に触れます。
何度か書いてるとおりオゾンは結構好きな監督。『スイミング・プール』で「わかったモーメント」がきてからも相変わらず「素晴らしいオゾン」と「どうでもいいオゾン」があるのだが、仕事量が多くて説明が上手でなんとなくソダーバーグみたいだと思っている。面白くなくたってやることやりゃ映画になる、みたいな。
でも初期は短編『サマードレス』を数年前に見て最高では?と思ったもののどうせわかんないほうだろうと思ってた『ホームドラマ』、キャンピーなんだけど端々が手堅くて面白かったですね。同性愛が重要な要素、という意味だけではなく「慣れろ、おちょくれ、踏み外せ」なクィアなんですよ。同性愛、階級、人種、障害、近親相姦というのは60年代くらいからの「謎の来訪者(無)による上流階級破壊劇」においてもお約束なわけだけど、そこに過剰さの笑いを取り込みあのオチを加えることでさらに捻った「クィアが勝つ」に書き換えているのね。
ケージの内側からの視線で立場を逆転させるカメラワーク。本当の欲望を実現すれば首に枷が加わる。あのネズミは何なのか。ファーストシーンからの予想を覆す終盤(大笑い)で「やっと殺せた」のは何か。最後に墓石の前にどういうカップルが並ぶのか。
今見てよかったと思う。
勝手がわからない