『幸福なラザロ』がなんとも不思議面白映画だったので戸惑いつつも、この「どのように在ることが正解な話なのかまったくジャッジできない」感じは良きだな…もちろん「こうあってほしさ」をスパンと射抜かれるのも気持ちいいのだが、私の今の感覚にジャストになるというのはよほどでないと難しいわけで、「どこにいくんだこれ」になってくれるのは嬉しいものだ。
アドリアーノ・タルディオーロの身体の表情がとても素晴らしい。天使の塑像の顔、厚い胸板、シャツから除く胸毛、どっしりした腰まわり、ふんわりした声、てくてく歩く姿の絶妙なこの世の外の人らしさ。監督は彼を発見した瞬間にこの人しかいないと思ったのではないか。
『天空のからだ』は背景を知らないとわからない要素がそこそこある映画だったけど、こっちは宗教とかイタリアの農村部の状況とか労働者と移民の歴史とか要素が色々入ってるわけだけど、多分そのあたりはそんなに知らなくても大丈夫だと思う(私がそうなので)
いずれにせよエリエリレマサバクタニの話ではある。が、それが言語によってというより身体や物体、具体でガシッとやってくのが骨太でいいですね。あの落下とかすごくね?
アルモドバル作品はそんなに得意ではないのだが『ジュリエッタ』も結構面白かった。ケア(心配)とケア(世話)の交わるところ×大いなる力、みたいな話だったのね。
インテリアの最高さは毎度なんだけど、今作のそれは特に冴えてた気がする。2つの色彩の壁の中央に配置される顔!巨大な時計!魚とホタテ柄のキッチンタイル!海が見える窓の格子の絶妙な位置!完璧な色彩のサラダとオムレツ!悪趣味なのか豪華なのかよくわからない、マドリッドのアパートメントの壁紙!
罪悪感の話としては「アルモドバル先生ってばまーた男に甘いー」と思うのだが(恋人はともかくとして父親ーっ!一方女は罪悪感を募らせ「罰を受けるべき」が連鎖する、そもそもジュリエッタの罪悪感の対象にはなんでか女は含まれてない)なんだけど、父母と息子では生じにくい関係性を母と娘で描きたい気持ちはなんとなく理解できるし、うっすら「超越的ななにかに引っ張られている」ニュアンスが出てくるのでじゃあ仕方ねーか、と思った。仕方ないよね、愛は呪いだから…
今日は『アメリカン・フィクション』と『ジュリエッタ』を見たよ。全然そんな映画だと知らずに見て介護映画2本立てみたいになった。いや主題はそこにはない話なんだけど、どっちも圧倒的存在感の家政婦さんが出てくる話であったな。後者にいたってはピカソの女の顔を持つロッシ・デ・パルマ様である。物語を支配するのは当然なのである。
で、『アメリカン・フィクション』は『リッキー・スタニッキー』ともつながっている。というかリッキー・スタニッキーが「アメリカン・フィクション」のタイトルでも成立する、というかのむしろ誠実な「アメリカン・フィクション」なのよね実は。
表象の話なのにそこはいいのかね?みたいなとこにちょいちょい引っかかりがあるが、一応オチで回収されているものと見られなくもないので、まあ許容範囲かな。
ジェフリー・ライトはまあうまいことうまいこと、立ち居振る舞いに自分を高く見積もってるのか低く見積もってるのかわかんなくなってる人、無責任にもなりきれないが責任ある大人の行動は苦手な人の居心地の悪さ、ゴソゴソモゾモゾした感じと尊大さが絶妙に混ざっている
台詞がいちいちおかしい、クナウスゴールみたいなオートフィクションだろどーせ!とかアーヴィン・ウェルシュみが…とか文芸の内輪ネタ感も強いけどまあ実にそんな感じよな
ポリコレが今みたいに特定の層が目の敵にする相手を揶揄する言語になる前からずっと、意識低い系に偽装して、いたって真面目に(時代の限界はあれど)「みんな」のコメディをやる、がファレリー兄弟案件だと思ってるので『俺らのマブダチ リッキー・スタニッキー』のしょうもなさ(今の私はギャグがこの路線のやつってメインキャラが男子でも女子でも苦手なんで)の向こうに割と本気でアメリカは大事なこと忘れちゃあかんよ、の真顔を見た気がして、ちょっとグッときちゃったな。representationは社会的な要請と関係なく既にそこにあるものってだけなんだから何を今更、というね。
世の中にはいろんな人がいるに決まってる。失敗してダメダメなことだってたくさんある。でもさー、みんなで幸せになろうや!フリでもいいから良い奴であろうや!という。
『人間の境界』続。ネタバレ云々の話ではないですが、一応伏せる。
家族、国境警備隊、活動家たち、ユリアの4章で構成されているのだが、いずれも「スマホ」と「言語」という命綱についての話として繋がってるのが地味にすごいんだよな。生き延びるため救うための共通ツールになるのが英語と仏語(植民地原語…)、充電が命の森の中で地図も対話も医療も告発動画もすべてスマホにかかっている(そして「彼ら」はそれを破壊する)。あと動物(主に犬)の使い方も見事だと思った。
あとたぶんポーランド出身で仏、米、ドイツと関わりながら映画製作を続けてきた大御所女性監督としての感覚値もかなり重要な要素なのではないかと思ったのね。ラウル・ペックの『殺戮の星に生まれて』(あまりにも重くて途中までしか見られてないけど…)と同種の視点を持った映画というか。白人男性以外は人間ではなく、よって支配は美徳であるという通念の上に多くの国家が成立してきた、という(それだけに集約できないことは東アジアの人間として感じるが…)視点がある人の語りだ、と思ったの。醜く描かれた暴力的な男たちを悪と感じさせる以上にその背後にある軍事主義が意識されるというか。直接のそんな台詞は全然ないんだけども。スコープの広さ深さは確実に今年の新作でトップクラスだと思う。
『人間の境界』。ネタバレ云々の話ではないですが、一応伏せる。
アグニエシュカ・ホランドの映画はそんなに見てこなかったのだけど、こんな凄い人だったかとびっくりした。2時間半、決して駆け足にならず停滞することもなく、必要なことを必要な画で見事な場面転換(省略とじっくり撮る部分の使い分け素晴らしい)を積み重ねる。見る前はこれをモノクロームの画面で描く意味ってなんだろう?って感じてたんだけど、ノイズの削減(色情報がカットされることで「映っていること」に集中できる側面があると思う)による普遍性の獲得みたいなのを感じてと見たあとだと納得しかなかった。
射程範囲がめちゃくちゃ広い映画だと思う。後半でのある展開が裕福な白人に甘いのではと感じる人もいるかも。でも「自己評価をあげたいだけのリベラルかと思ってたけど」を置いたり、あくまでこどもたち同士で交流させていたりと配慮がきいている。それぞれの立場の人間がなすべきことをなす姿を描くのも人を信じる覚悟の現れとみた。
人間を諦めない、誰ひとり取り残されてはならないのに、をあのエピローグの「扱いの違い」で結んでるところからも甘さも厳しさのバランスをここに定めたのはあえてなのではないかと。
『人間の境界』すごいよかったんだけど、何がよかったってこの題材で面白くないことに意味がある、という方向にはいかなかった大御所の凄みと軽やかさの両立ぶりですよ…いやこれ映画としてかなり面白くないですか?
@spnminaco わーゴースト映画同好会仲間ー!いや、良い映画ですねこれ。リンチわからない勢なんですがリンチっぽいのは好きです😊確かにちょっとあの写真の感じとかツインピークスよぎりました。愛がすべてをわかつまで!クリスマスと惨劇はやたらと似合いますね…
『ファイブ・デビルズ』は想像していたよりかなりツイストのきいた話で、こういう「運命の女」映画の変奏がありえたのか!ってなった。匂いでタイムリープする少女が過去を知ることに…というあらすじからフムフム?となってたのだがそこは主題ではなかったのね。水中エクササイズの指導をしているアデル・エグザルホプロスは表情も身体も「天然」感がすごいので、運命を天然に変えがちなママに最適。青い舌を突き出してベーッと脅かしてくるダフネ・パタキアもやはりいいですね。
「こういう話だったの?」的に予想の範囲からずれて「すげー、とんでもないメロドラマじゃんこれ」になる脚本も面白かったのだが、趣味の良いホラー感性に裏打ちされてる写真の使い方や表情への違和感の抱かせ方、田舎の「ただそこにある」自然の凶悪を秘めた気配が好みだったのも大きい。愛は呪い、呪いは愛、みたいな話なのでゴーストはいないけどゴースト映画的感性ともいえる、かしら。
ちょっと『悪は存在しない』と同種の感覚があった。ショッピングカート上とか車視点とか謎にショットが面白いところもあるかな。こっちのほうがはるかにエモーショナルでドラマ的にも真面目なんだけど、でも「それはそうだからそれはそう、そうなったからそうなるね」という感覚が心惹かれるポイントとして近しいのかもしれない
『美と殺戮のすべて』を見てきたのですが、『関心領域』と並んで感想がパッと言えないというか、あえて「近づけない」ような構成をとらないと語れないことがある、という点かな?手法自体は全く異なるのに共通する離人感が出てくるというか。奇しくもどちらもミカ・レヴィ案件。(引用されるナン・ゴールディンのスライドに使われてるとこがある) 物語化を拒みながらも映画になる以上は物語に集約されるみたいなところもあるかしら。不思議なタイトルの由来はわかるようでわからないのだが確かに「それ」に立ち向かうものとしてカメラがあったということなんだろうな。
これだけの密着取材で丁寧に語られればある時代のアンダーグラウンドカルチャーの熱気や現代の運動の怒りのエネルギーがもっと立ち上がりそうなのに、常に感情を寄せ付けない距離があるというか。これはあなたの物語ではない感が人物ドキュメンタリーとしても運動のドキュメンタリーとしても結構異色だと思う。談話としては「初めて話すけど、大事なことだから」の部分とか、他人の性を撮る人間が自分のそれは出さないのはフェアじゃねーなと自分がセックスしてるとこを撮ったってところとかが印象的。でもなぜか身震いしたのは序盤の木々のショットだった。何か圧倒的に厳しいサムシングを感じた。
勝手がわからない