今日は『アメリカン・フィクション』と『ジュリエッタ』を見たよ。全然そんな映画だと知らずに見て介護映画2本立てみたいになった。いや主題はそこにはない話なんだけど、どっちも圧倒的存在感の家政婦さんが出てくる話であったな。後者にいたってはピカソの女の顔を持つロッシ・デ・パルマ様である。物語を支配するのは当然なのである。

で、『アメリカン・フィクション』は『リッキー・スタニッキー』ともつながっている。というかリッキー・スタニッキーが「アメリカン・フィクション」のタイトルでも成立する、というかのむしろ誠実な「アメリカン・フィクション」なのよね実は。

表象の話なのにそこはいいのかね?みたいなとこにちょいちょい引っかかりがあるが、一応オチで回収されているものと見られなくもないので、まあ許容範囲かな。

ジェフリー・ライトはまあうまいことうまいこと、立ち居振る舞いに自分を高く見積もってるのか低く見積もってるのかわかんなくなってる人、無責任にもなりきれないが責任ある大人の行動は苦手な人の居心地の悪さ、ゴソゴソモゾモゾした感じと尊大さが絶妙に混ざっている

台詞がいちいちおかしい、クナウスゴールみたいなオートフィクションだろどーせ!とかアーヴィン・ウェルシュみが…とか文芸の内輪ネタ感も強いけどまあ実にそんな感じよな

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アルモドバル作品はそんなに得意ではないのだが『ジュリエッタ』も結構面白かった。ケア(心配)とケア(世話)の交わるところ×大いなる力、みたいな話だったのね。

インテリアの最高さは毎度なんだけど、今作のそれは特に冴えてた気がする。2つの色彩の壁の中央に配置される顔!巨大な時計!魚とホタテ柄のキッチンタイル!海が見える窓の格子の絶妙な位置!完璧な色彩のサラダとオムレツ!悪趣味なのか豪華なのかよくわからない、マドリッドのアパートメントの壁紙!

罪悪感の話としては「アルモドバル先生ってばまーた男に甘いー」と思うのだが(恋人はともかくとして父親ーっ!一方女は罪悪感を募らせ「罰を受けるべき」が連鎖する、そもそもジュリエッタの罪悪感の対象にはなんでか女は含まれてない)なんだけど、父母と息子では生じにくい関係性を母と娘で描きたい気持ちはなんとなく理解できるし、うっすら「超越的ななにかに引っ張られている」ニュアンスが出てくるのでじゃあ仕方ねーか、と思った。仕方ないよね、愛は呪いだから…

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