パーフェクトデイズに関する思弁はどんどん焦点が移動していった。
ヴェンダースもエリセも妖精とか精霊とか夢とかを入れることで、映画のメディウムスペシフィシティをリアリズム様式にとどめるのではなく、隙間を作ることの注力がけっこう一貫してるわけで、20世紀後半型の「アンリアルなものの導入」手法が、今世紀の政治的感度とうまく釣り合ってないってのがPDの問題なのかなというふうに考えるにいたった。
たとえば同じような欠点として今や浮上しているのがJホラーに今世紀の政治的イシューを絡ませられず停滞し、他方韓国や台湾のホラーの方がむしろ植民地後の記憶の政治学の導入が見られる状況が考えられる。
世俗の中に、道化や愚者から聖性を見出す手法一般について作品群を検討して考えることもできるんだろう、などなど。
不況の中国で中国版100均が店舗数を急激に増やしているとか、ブランド品のディスカウント販売の売り上げが好調だというニュースを見て、これ90年代後半から2000年代の日本じゃんって思った。あの頃100均がめちゃくちゃ増えたし今は大分数を減らしているアウトレットモールも盛況だったんだよね。
ジジイとショタだけという選び尽くされた品揃え https://twitter.com/ichibankuji/status/1764621844727070727?s=61&t=GC7VSa4PcXnbn5H8qsel2w
このへんからつなげば、パーフェクトデイズちいかわ説はいくらでも整合的にやれそう。
https://news.yahoo.co.jp/articles/1098aa03c6f26651c401e001c5104fbd0329e2d1
役所萌え萌えちいかわ説の感想ももちろんあるよ。https://twitter.com/sakumanju/status/1751216266063614339?s=46&t=5mSltbi1UVoy9J3RPXDKUQ
この線で考えると、ねこじるからナガノへの露悪要素ハンドリングは「絵の世界ゆえの『現実にこういう奴がいたら』フェイズ導入とそのずらし」に相当する、となる。PDと違って「美化しすぎ」みたいな反応が絵本やファンシーでは起きない、だからこそ、作中で「現実」モチーフをもう一度入れるわけだろう。こういうメディウムごとの分岐と対比の方をやるべきかも?と思う。
パーフェクトデイズの役所には、ちいかわを見出すのもわりと簡単だろうな。人から声をかけられたら、コクコク頷いて、ン、ン…!って反応してることがよくあるので。低階層便所掃除ちいかわの東京暮らしだという説が成り立つ。
で、PDちいかわとしてみると、「ナガノのジェンダー秩序が消えたような達成と比べると…。役所はおっさんやらおばあさんとも心温まるエピソードやれや」と即目につく。それが「女からの都合のいい承認や好意の配置はなんですかー?きもいー」のオピニオンの背景だな
タネールの『白い町で』は昔はVHSがレンタルされていた。レヴューみたら記憶にあるよりずっとクズっぽかったので笑ってしまった。そんな話だったっけ。
https://filmarks.com/movies/16462/reviews/159577032
同姓同名か〜。しっくりこないし前歴が消えてるのはなぜ?と思ってたらひどいオチだ https://twitter.com/tritonnova/status/858118076180512768?s=61&t=GC7VSa4PcXnbn5H8qsel2w
やっぱり重ねてる人いた。役所の実年齢よりカルチャー古いよなと思った https://twitter.com/6aumiftsocqwpdy/status/1762616701022249365?s=61&t=GC7VSa4PcXnbn5H8qsel2w
タイトルはルーリードから取られているが、「音楽良ければ全てよし」の民なら、ここから別のアレゴリー操作を見てとって一気に名作扱いにする作品読解も構築できそう。
パーフェクトデイズってタイトルにできたのはヴェンダースブランドゆえだろうな。もっと無名なら「トーキョージブシー」とかになりかねん。
映画『PERFECT DAYS』劇中曲
https://note.com/mztkwf/n/n880e42aa5277
北村紗衣は「階層的に便所掃除マンに同一化できないからキレるが、その種のフラストレーションこそが欺瞞的」と位置付け可能だし(便所掃除の会社は不当な扱いをしてるわけでもないから、会社にキレさせるのはいかにも「ヘイトターゲットを都合よく配置した」だけにならないか?)、北村匡平は「便所掃除マン階層じゃない、どころかマンションのローン組んで妻子いるのに、「俺の心の中の自我はこれ」のノリで没入してるから欺瞞的」と位置付けされてしまう。
つまり作者/作品の主人公の落差に対して、今度は評者/作品の主人公の落差が待ち構えている。小説家、さらにはプロレタリア文学においては、この手の落差は封じ込めに成功していたんだな、と逆に気付かされた。
あまり書き物ができてない。