どう即は、「勉強しない俺が最強」のナタで攻撃したがる典型だから、癖の発展系としての自生的セオリーに振り回される人の権化だよ。ああいうのが「セオリー嫌いの擬似セオリスト」。
セオリーに関する学習をした方がいいというのは、セオリーを使うためというよりも、「自分の見解を型にしていって、擬似セオリーとして延々振り回す」のを抑止するためにハンドリングの知という次元を考えられるようにするためだとか、「ジャーナリズムや論壇というこれまたセオリーの亜種みたいなナラティブに曖昧に適応して、それに振り回される」のを抑止し解析できるようになるため、っていうのが大きいな、とつくづく思うようになった。
鉤括弧つきの「セオリー」と登録されていないだけで、それの劣化体、前駆体のようなものに足を取られている人は山ほどいるし、Critical Theoryの履修課程が乏しい日本ではむしろそっっちが多数いる。
ギャンブル把握が2周ぐらい進むとこうなるんかという驚きのあるツリー
“ポーカーの世界大会に出てる女性の話が面白かった。
「ポーカーは他のギャンブルと違って勉強すればするほど勝率が上がるのが面白い。運と実力の要素は50:50くらい。確率論だけじゃなくて、見えているカードによって確率が次々と変わっていくので記憶力も重要。勉強が好きな人は向いてると思う」”
https://x.com/paddy_joy/status/1832775399971160450?s=61&t=GC7VSa4PcXnbn5H8qsel2w
なるほど。「ただ、〜」こそがポイントっぽいが。
“「なんで1世紀以上前の贈与論をいまさら新発見のように…」と思いかけるけど、
・贈与論は、文化人類学が射程としていた部族社会だけでなく、近世の王国成立まで範囲拡張できることを証明した
・分業社会の成立は、余剰生産力だけでなく、贈与によって成立する「安定的な王国(統治)」も並行作用あたりが刷新的なのか。
ただ、まだ近代国家・経済を射程に含めていないので(そこにはめっちゃ高いハードルがありそう)、「贈与が数理化されたので、これでこんにちの経済学が塗り替えられる」とか騒ぐのは激しく拙速な気がする”
https://x.com/ganko_na_yogore/status/1832635421953552677?s=61&t=GC7VSa4PcXnbn5H8qsel2w
いろいろ読んだが、短編は何かしらのオープンエンドを要求するんだなあと示唆される。そういうふうに開かない、開きたくないという衝動もしばしば制作では生まれ、新井英樹が言及してる感覚は「作品の終わりとともに俺もお前も死ぬ」のドライブだろう。 https://x.com/arai_h_official/status/1829042355296711083
自分の生き死に、作品の生気的活動の有無を、作品の開閉を一致させたくなるという志向。しかし実際には作者は主人公や作品と一緒に死ぬと、失うポテンシャルが多い。
あまり書き物ができてない。