セオリーに関する学習をした方がいいというのは、セオリーを使うためというよりも、「自分の見解を型にしていって、擬似セオリーとして延々振り回す」のを抑止するためにハンドリングの知という次元を考えられるようにするためだとか、「ジャーナリズムや論壇というこれまたセオリーの亜種みたいなナラティブに曖昧に適応して、それに振り回される」のを抑止し解析できるようになるため、っていうのが大きいな、とつくづく思うようになった。
鉤括弧つきの「セオリー」と登録されていないだけで、それの劣化体、前駆体のようなものに足を取られている人は山ほどいるし、Critical Theoryの履修課程が乏しい日本ではむしろそっっちが多数いる。
いまでは、ウェブのアテンションやウェブでの受容を、「作品読解の代わりとしてのフィルタリング装置」として運用し、そのフィルタリング装置を使えば論点を縮減できて便利だから大賞を還元するために振り回す人も大量にいて、これもまた「擬似セオリーとしての言説生成装置によって無自覚に振り回される」ケースになっている。
そうすることでSNS環境への隷属に対するメタコメンタリをする(というかたちでの隷属)をやるくらいなら、私は作家論・作品論をやることで別の余白を広げたほうがよっぽどいいなと思いつつある。