セオリーに関する学習をした方がいいというのは、セオリーを使うためというよりも、「自分の見解を型にしていって、擬似セオリーとして延々振り回す」のを抑止するためにハンドリングの知という次元を考えられるようにするためだとか、「ジャーナリズムや論壇というこれまたセオリーの亜種みたいなナラティブに曖昧に適応して、それに振り回される」のを抑止し解析できるようになるため、っていうのが大きいな、とつくづく思うようになった。
鉤括弧つきの「セオリー」と登録されていないだけで、それの劣化体、前駆体のようなものに足を取られている人は山ほどいるし、Critical Theoryの履修課程が乏しい日本ではむしろそっっちが多数いる。
他方、セオリーと人文とアカデミシャン関心秩序が作り出す「英米系オピニオン論壇」もあって、ジジェクもアガンベンもフェミニズムもそこで受けてる勝利言説だよな、というはある。で、これらに対する反感もしばしば「論壇オピニオンとジャーナリズムへの反感」のヴァリアントになる。私はそれらを必ずしも舐めはしないが、同時に「もっと〜 Studiesエリアの方も掘る」を作業に入れる状態か。