sa さんがブースト

ー観光地として発展し、子育て施策が充実しているなどの理由で住みたい街として人気が高い北谷町。一方、地価が高騰し若い世代が住めない街になりつつある。ー

富裕層の白人や日本人に土地を奪われネイティブハワイアンが追い出されているハワイと重なる。

ー入植者の植民地主義は、植民者が領土に侵入して占領し、既存の社会を植民者の社会に永久に置き換えるときに発生します。-ウィキペディアより

香港や台湾の富裕層も購入していると記事にあるが、日本人が沖縄の土地を購入するのとはわけが違う。

外国人は文化を置き換えたり言語を強制したりしない。互いに尊重し対等な関係で琉球・沖縄の文化と交じり合い新たな文化を生み出す力となる。

一方植民者である意識が皆無の日本人は、歴史を知らず、文化を盗み、自然を破壊し、日本のための沖縄として歴史もろとも上書きしそれを「良い」こととして押し付ける。

ウチナーンチュが「サイゼリヤほしい」と言うのと、移住者が「サイゼリヤを沖縄に」というのでは雲泥の差があるんです。

琉球を侵略・支配した入植者日本人が、先住していた人々の存在を抹消し不可視化していくプロセスをセトラー・コロニアリズムという。

ryukyushimpo.jp/news/region/en

sa さんがブースト

土地を奪われ独自の言語を禁じられ同化政策を強いられたマオリと琉球・沖縄人の歴史は多くの共通性がある。

植民地支配を受けていた国は独立を果たしたり文化や言語の復興が進む。マオリは1970年代から文化復興が始まり、現在も権利回復の途上にある。

そんな中、沖縄は未だ先住民族とも認められず、自ら文化や言語、土地を手放すほど状況は良くない。

県内には代々この地に住む人が多くいるはずなのに世界の先住民や少数民族のように言語や文化を取り戻せないのはなぜか。

時折同じ民族的マイノリティから「沖縄は土地もあり人数も多いのに・・・」と遠回しに嫌味を言われることがある。濁している部分はきっとこんな感じだろう。

「琉球人が本気を出せば言語も文化も取り戻せる。それをやらないのは自己責任では」

琉球・沖縄人が骨抜きにされたのは沖縄戦の影響が大きい。

身内に手をかけてまで生き残った人びとの「平和」と、蛇口をひねれば水が出る中で育った人々の「平和」は違う。

どんな事があろうと「沖縄戦」に比べたら・・・というのは正しくもあり間違ってもいる。

沖縄戦は一般的に知られている被害だけでなく一つの民族のアイデンティティを破壊したという事も、もっと共有されるべき事実だ。

newsdig.tbs.co.jp/articles/rbc

sa さんがブースト

沖縄にはコールセンターが多い。沖縄ならではのホスピタリティを植民者が低賃金で買い叩く。

苗字で沖縄人とわかるので少しでもミスれば「これだから沖縄は」と罵倒され、素晴らしい対応を見せればヤマト企業の功績とされる。何重にも搾取されるグロテスクな構図に怒りしかない。

そんなコールセンターで働く人から時折グッとくる話を聞くことがある。

ある日、ヤマトで働く沖縄人がお客さんとして問い合わせをしてきた。コールセンターのスタッフが沖縄の苗字だとわかると饒舌になり、最後に「ちばりよー」と言って電話を切ったそうな。

スタッフはヤマトで働いている沖縄人の苦労を想像し泣いた。自分もたくさん苦労しているはずなのに、と。

遠くで頑張っている同胞からふいに向けられるがんばれの一言。たったそれだけの言葉で心が揺さぶられるのは、日本にまだ差別が残っている証ではないの。そうでなければなぜ泣くの。

「琉球人お断り」という差別は表向きなくなったように見える。でも実際は差別が巧妙になっただけで何も変わっていない。

差別する側もされる側も無自覚なこの島だけど、「ちばりよー」と言った沖縄人を思って泣ける人がいる限りまだまだ沖縄は大丈夫な気がする。

がんばれよー、がんばろうねー。

sa さんがブースト

芥川賞作家・目取真俊さん、辺野古記録し10年 「諦め、膝を屈して目を背け、逃げ出したくても逃げられない」 
okinawatimes.co.jp/articles/-/
#okinawatimes

自分は小さい時から全く沖縄に所属欲なかったような気がするんだけど、同化政策による摩耗がすごかった。

自分の中で見つかった探究テーマが「同化(または同化政策)について」だったんだけど、それに含まれる最も個人的な感情って故郷への愛憎や所属感じゃなくて 溶け合わない関係上での喪失感そのものの共有かもしれない。共依存的なものはもうこりごりで、ネットみたいな軽い繋がりの中で見つけた沖縄-琉球アイデンティティ論者の存在に触れたときみたいに。

沖縄にビジネスしに来てるやつ嫌い

sa さんがブースト

沖縄をビジネスにする人はざっくり「エリート」と「一発逆転」タイプにわかれるな。共通点は植民者だから下駄を履かせてもらっているという事を理解できず、実力と思っているとこ。

後者は「弱者男性」的な勘違い拗らせが多いので厄介さが増す。

舗装された道をスイスイ歩く日本人とは対照的に、短いスパンでいくつものハードルが置かれた砂浜を走らされている沖縄人。移住者が自分の地元で出来なかったことが沖縄では軽く出来る気がするのは植民者だからですよ。

自分達で問題作って、自分達で解決するとか、永遠に仕事がなくならなくて羨ましいとしか。

sa さんがブースト

琉球にあった芋を薩摩が日本へ伝えた事で「さつまいも」となった。
琉球にあった芋は中国からつたわった「甘藷」であり、唐芋などと呼ばれていた。
伝えてくれた国に敬意を払い「唐芋」と呼んでいた琉球と違い、薩摩は奪った芋に自分達の名をつけて「さつまいも」と呼んだだけ。

日本にならなければ琉球は今も貧乏だ、という言説は「芋・裸足論」と呼ばれ、琉球侵略を正当化する意味でよく用いられるが、薩摩が支配するまで琉球が豊かな国だったというのは歴史が証明している。

薩摩の芋で飢えをしのいだ、というのは嘘。

sa さんがブースト

BT
「Black Lives Matter」 に「All Lives Matter」で返すのは、基地問題で言うと、沖縄人が「日本人は基地を引き取れ」と言った時に「基地はどこにあってもダメ!戦争に繋がる全てに反対!」と言っているのと同じ。(一見素晴らしい

基地問題とは人権問題であり差別構造の象徴なのだから、沖縄人の人権を訴えた時に、日本人の人権を被せてくるリベラルの行為はネトウヨ的と言わざるを得ない。残念ながらBLMに理解を示す人でさえも沖縄に関してはバグりまくる。正直、リベラルが1番厄介だ。

ALMを訴える人々が日頃から命を大切にと思っているかわからないように、沖縄の米軍基地引き取りを「全基地撤去」との理由で拒否する日本人が辺野古以外の基地反対運動を日頃からやっているかと言えば疑問。

自分達に向けられた責任からもっともらしい詭弁で逃げ続けているのが日本人である。

沖縄では差別解消条例に琉球民族を入れるよう何度も色々な人が働きかけたが、結果的に「民族」自体が抜かれた形だけの条例となった。民族の代わりにいれられたのが「県民」。

ALMを唱えた白人至上主義者のように、民族の権利を認めない日本人至上主義者が民族マイノリティの訴えを抑圧し「県民」に変え殲滅しようとしている。
それもまたALMの一種。

sa さんがブースト

僕は原発事故の時、宮城県から関西へ避難しながら、被災地の僕たちは簡単に切り捨てられるだろうと思いました。日本に限ったことではありませんが、非常事態にこそ、国家は本性を表し、末端の民を切り捨てる。国家が周辺の民をどう扱ってきたか、歴史を学んできたので、間違いなくそうなると思いました。自発といえば自発、強いられたといえば強いられた両義的な移動です。国家と、翻弄される個人との冷徹な関係を、身を以て実感させられた瞬間でした。

 東北地方は地続きだから見えにくいんですが、貧しい農村として、労働力を工場労働者として首都圏に出し、首都圏の食料供給地になり、原発建設で首都圏の電力供給地にされた。まさに植民地的。それを東北地方に対する扱いで思い知ったわけです。(引用)

本当〜にこれですよ。北陸もそう。
(百万回くらい引用してるけど各方位に重要なインタビューなので是非読んで下さい。この発言も沖縄という土地の植民地的扱いから、基地と原発の話に流れて始まっています。)
book.asahi.com/jinbun/article/

sa さんがブースト

BT
辺野古で琉球諸語の学習者(琉球ルーツ)がウチナー口で挨拶をしたら日本人移住者に「日本語で話せ!」と叱られたという話を聞いたことがある。残念ながらそこにいた一部ウチナーンチュにも同様に言う人がいたらしく、植民地主義と同化政策の根深さを感じるエピソードだ。

ではそれがウチナー口ではなく英語だったら?アジアの方ではなく白人だったら日本人は「日本語で話せ!」と言ったでしょうか。そういうとこだよ批判されてるのは。

日本が虚構の「同祖論」を喧伝していたのは琉球だけじゃない。独立を果たした国に対して日本は根拠に乏しい「同祖論」を喧伝できなくなったのだ。

日本には多くの「日琉同祖論」肯定派が存在する。日本国が未だ日琉同祖論をなぜ取り下げないのか、そして一部日本人がなぜ琉球と同祖であることを望むのかよく考えないといけない。

どこかで必ず繋がっている人種の話ではなく「民族」の視点をもって「同祖論」を根底から覆さなければ、琉球人だけでなく歴史もろとも物理的破壊が繰り返されるこの島々のように上書きされてゆく。

(2024年も通常運転)

sa さんがブースト

BT

今でも沖縄に移住したうだつが上がらない日本人が同じことをやっている。

出身地で選挙すら行かず政治に興味もなく(まさに沖縄の現状を作り出したような人)がなぜか沖縄に移住した途端活動に目覚めたり最悪選挙に立候補するなど珍しくもない。

そして「本土」にいる時の倍またはそれ以上のスピードで有名になりキャリアが積めるのを見てわかるのはここが完全な植民地であること。

移住者が先住民族の権利を忌避する理由の一つは琉球民族への差別が解消され奇跡的に対等となる日がもし来たら、同時に彼らの「キャリア」は無価値となり、現代においても沖縄人からアレコレ奪ってきた加害当事者だということを暴かれるからだ。

ー1930年代の満州は本土(内地)で芽が出なかったり、「ワケアリ」になってしまった若い人たちが渡って事業を起こしたり、開拓者になったりして「一発当てる」場所だった(そして、そこは日本的な帝国主義に基づいた植民地以外の何ものでもなかった)ー

sa さんがブースト

言語の研究者の方(琉球ルーツ)が「アイデンティティを取り戻す作業は苦しい」と言っていた。確かにとても苦しい。過去に被った差別を一つ一つ認識し、心を蝕んだ「同化」を身体中から引き剥がすのは血を流さずにはできない。

言語や文化芸能など、守るべき財産は琉球ルーツにとってプレッシャーとなる。気負いと責任感、できて当然という周りの圧力は時に沖縄人を文化などの継承から遠ざけてしまう。

その点何の気負いもない日本人は「習い事」として文化盗用の意識もなく、指摘されてもやめずのびのびと「学び」上達する。

一言「辺野古反対」と言えばある程度融通がきき、最近ではより狡賢くなり「日本人の加害性と向き合っています」と空っぽの宣言で加害性を薄めるテクニックまで身に付けた日本人。
「公益」とはこのような日本人の利益を指す。

痛みを伴いながらアイデンティティを取り戻す琉球ルーツと、そのアイデンティティを奪った加害の歴史と向き合うことなく今だに琉球・沖縄を搾取し楽しく弄ぶヤマトゥンチュ。

歴史と真摯に向き合えば、そこには必ず痛み苦しみがあるはずだ。傷つかない反省など存在しない。

「避難」と称した現代版土地接収が行われたら琉球ルーツは帰る場所(ホーム)を失う。手遅れになる前に、日本人として痛みを伴う歴史的な清算を。

sa さんがブースト

パレスチナの作家であり「We Are Not Numbers」の共同設立者でもあったRefaat Alareerさんが亡くなったことを知る。12月7日の空襲によって家族ぐるみで殺害された。無数の「テロリスト」のひとりに数えられてしまった。

Refaat Alareerさんは「If I must die」という詩を2023年11月1日にSNSに投稿していた。以下、日本語に訳しておく。

僕がもう死ぬしかないのなら
君はもう生きるしかない
僕のことを語り伝えてほしい
僕のものを処分したお金で
布切れと凧糸を買ってほしい
そうして(それを白く高くたなびくようにして)
ガザのどこかでひとり
天を見上げる子供が、
火だるまになって消えた父親を
だれにも
自分自身の体にさえも
別れを告げずに
消えてしまった父親の帰りを
待ちわびる子供が、
その凧を見て
君の作った僕の凧の
天に舞うのを見て
ほんの束の間
それを天使と思うはず
愛を返しにきてくれたと思うはず
もし僕が死ぬしかないのなら
それが希望となりますように
それが物語となりますように

https://mimei.maudet.net/4150

sa さんがブースト

SNSはマジョリティが楽しむツールだなと身にしみる。植民者に植民者と言えばブロックされ、逆にこっちは「ないちゃーは差別語だから使うな」「(民族は日本人を含まないから)県民といえ」と抵抗の言葉さえ奪われる。マジョリティは耳が痛い指摘から逃げても「平和」な世界を保てるのでしょう。人数的にも多いしね。

その点マイノリティは何一つとして権利を返してもらえず、あれするなそれ使うなこれも学べお前らも加害者だ!ととにかく責任ばかりが増えていく。

ヨシヨシしてくれる「優しい」ウチナーンチュとだけつるみポジショナリティを問う一部のウチナーンチュを過激派と避けていれば日本人としての加害性は問われず国家の「安全保障」も維持できて、更に沖縄のために(結果は何一つ出せずとも)やりたい活動だけをして「救世主」としてキャリアアップできて羨ましいわ。

それなりにリスペクトしてきた反差別を謳う移住者でさえ日本の最初の一手には全く触れない。ある程度までは連帯できても自分の加害性を突きつけられたら逃げ、時にはウチナーンチュの加害性をあげつらう。それが殆どのヤマトリベラルの姿。

辺野古は琉球・沖縄の問題から派生した一つの点でしかない。
よくできた目くらましだよ。

『サルガッソーの広い海』のジーン・リースが植民地出身なんだけど、『あいつらのジャズ』が本当に良くてね。なにも確立できず奪われていくアイデンティティを表現している。
  ………………

 手紙を読んでわたしは泣いてしまう。だって、あの歌はわたしの唯一の財産だったのだから。わたしにはどこにも行き場がないし、そういう場所を手に入れるお金もない。また、手に入れたいとも思わない。
 でも、刑務所で歌っていたあの女は、わたしに向って、わたしのために歌っていたのだ。わたしが刑務所にいたのは、それが運命だったからだ。あの歌を聴いたのも運命だった…それはまちがいない。
 今では彼らが変な歌にしてしまっても気にならない。他の歌と同じように、どうせわたしからは取りあげられてしまうのだ。みんな取りあげられてしまって、わたしには何ももらえないのだ。
 けれどもわたしは、みんなくだらない話だと思いなおす。たとえ彼らがあの歌をトランペットで吹いたって、正確に、わたしの望みどおりに演奏してくれたって…どんな壁だってかんたんに崩れはしないのだ。「それならジャズだと言わせておけ」とわたしは思う。「ちがう歌のままにさせておけ。だからと言って、わたしの聴いた歌が変わるわけではない」
 わたしはもらったお金でダスティ・ピンクのドレスを買う。
 

sa さんがブースト

沖縄では「争うより愛しなさい」というスローガンが問題となった。そりゃあそうでしょう、沖縄は一方的に弾圧されているだけで「争って」などいない。
ずっとずーっと奪われてきただけだ。土地も資源も決定権も。全てを返せと非暴力で訴えている。

非暴力抵抗運動を「争い」と印象操作しネガティブなイメージを持たせたのは誰だ。
「争い」とすることで何も失わずに現状を維持できるのは奴らだけだ。

今ガザで起きているのは民族浄化・ジェノサイドであり戦争ではない。

「争うより愛しなさい」や「憎しみから何も生まれない」などの「名言」をマジョリティは悪用する。

批判の矛先が自分に向かないためにマイノリティの抵抗を「名言」で押さえつけ、それでも溢れる憎しみを「自衛」と称した攻撃で虐殺し殲滅する。

沖縄も、ガザも、争ってなどいない。
一方的な民族浄化に「停戦」と呼びかけることには違和感しかない。

世界は黙ってみているだけ。
パレスチナの人の言葉が突き刺さり、次の瞬間同じ言葉を多くの日本人へ向けたくなる。

強い同化への願望だろうか、かえって私は東京では「異邦人」で、故郷に対するわだかまりが強く、ウチナーンチュというアイデンティティを強く否定していたときがある。
そのとき学んだ米文学は「失われた世代」の作家がメインだったけど、特にお気に入りはその時おすすめされた現代の作家のジョナサン・サフラン・フォアの『エブリシング・イズ・イルミネイテッド』というウクライナでルーツ探しするアメリカ人の青年のもので、この主人公の少年と自分は一体どこが違うのだろうと自分がわからなくなった。

自分がアイデンティティ・クライシスに直面するのに、親子間の愛着の問題、そして祖父から受けたトラウマは大いに関係している。
個人の問題を社会の問題としてミクロに捉えたとき、ここにあるメンタルヘルスの問題は過去の沖縄戦と無縁ではないのでは? という考えがあった。
祖父祖母の両親は戦争直撃世代。祖母も祖父も幼少期に大阪への疎開やヤンバルでのソテツ地獄を味わっている。私は今トラウマ治療のカウンセリングを受けている。
この島の戦争PTSDの長期的影響を、末端の世代である私たちが消化していく。

sa さんがブースト

暑すぎる。
12月なのに暑いねぇ、という日は昔から多かった。にしても今年は連日暑い。

ホームページ上にクリスマスの雰囲気を出すため雪を降らせようとしたとある業者に「沖縄は雪が降らないので余計なことはしないでください」と突っぱねた先輩に、何もそこまで・・・と思った過去の記憶。今ならその意味が少しわかる。

今年に限らず沖縄のショッピングセンターは冬だろうとクーラーが付いていることが多い。それなのに服屋のマネキンはダウンを着ている。半そでで店内をふらつきながら違和感だらけの沖縄にため息をつく。

日本は単一民族で、全国多少のズレはあろうと同じように四季があり桜は4月に咲く。言語は「標準語」を基準とし他は方言として認識される。

日本にしか無いといわれる「国語」という科目は、多種多様な言葉やイントネーションを「標準」より劣っているような印象操作と、琉球諸語を琉球ルーツから根こそぎ剥ぎ取るための同化政策として今も機能している。

五感で感じる沖縄と、こっそり忍び込んだ日本化現象によって作られた「沖縄」との乖離が、心の不安定さを加速させる。

同化政策ゆえの「同じ」への憧れをさっさと捨てて、違いを大切にできる沖縄になってほしい。違いこそがかけがえのない財産なのだから。

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