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急遽呼ばれて二泊三日の東京出張から戻ってきた。
今は音環境の改善を考える仕事をしているのだけど、空港や飛行機はまさに劣悪な音環境の筆頭。音の情報量の多さ、音量、音質がかけ合わさって耳への負荷が凄まじい。
これは今すぐでも改善できるんじゃないかと思うのは、飛行機でのアナウンスの音量。機内ラジオや映画の音量よりも数段階大きいのが非常に体験としてよろしくないのだけど、何年もずっとそうなんだよな…機内コンテンツと平均音量は揃えられるものではないのか…?
あとはアナウンスが入るときに機内コンテンツがブツッと切れるのも度し難い。数十ミリ秒でいいからフェード入れてくれ。

Raspberry Pi に刺すだけで使えると思っていたセンサーが、どうやらはんだ付けが必要かもしれず、急遽はんだごても買った。
まずい、電子工作沼だ :teokure:

my new gear... (言ってみたかっただけ)
Raspberry Pi デビューです :rickdance:

「確からしさ」というか、欺瞞的でないと思えるって結局、筋が通っているかみたいなことなのかな。私は欺瞞は排除しつつ意味からも脱却したい、ものごとの意味の有無を問わないでいたいと思っているんだけど、それって無理なのかなぁ…

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一週間やってみたゲームがあったけど、出てくるキャラクターがひどく肌に合わなくて衝動的にアンインストールしてしまった…
キャラを差別化する目的でつけられたような性格の悪さとか変な口調とかが、本当に苦手。
どっちにしろフィクションではあるのに、不必要に感じられて嫌なキャラ付けと、立体的に思えて共感できるキャラ付けって、どう違うんだろうな。

北沢 方邦著『メタファーとしての音』第一章第一節、『マライタ島レーピの「雨だれ」とショパンの「雨だれ」』。

西洋音楽・言語学・近代哲学・民族音楽のどれかの前提知識がないと早速迷子になりそうな勢い。幸い自分には西洋音楽の知識はあるので、トーン・クラスターやポリフォニー、ラヴェルの「夜のガスパール」を挙げられてもすぐわかるしイメージできるけれど、逆におそらく言語学用語である論述(ディスクール)の意味論や形式的機能という言葉で躓く。ある程度は用語の解説をしている注釈があるとはいえ、ちょっと難しい。

注目すべきと思ったのは、異なる文化圏で同じ「雨だれ」というテーマを持つ音楽があって、当たり前ではあるがその作曲者と鑑賞者の立ち位置がそれぞれ異なるということ。
ショパンのほうは作曲者の個人的情念が込められており、鑑賞者はその情念に縛り付けられる。
レーピのほうはおそらく作曲者も鑑賞者も共通して、自然の音は他界からの使信であるという視点で受け取っている。

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AskYourPDFプラグインをつけたChatGPTがつよつよすぎて感動している。
電子工作について完全初心者なので、「このセンサーに興味があるんだけど、ラズパイでそのパラメータを取るのってどうやるの…」ってそのままChatGPTに泣きついたら、そのセンサーのプロダクトデータのPDFを引っ張ってきて、どのページを参照すべきかもパラメータを取り出すスクリプトの書き方までも手取り足取り教えてくれた。
ありがたすぎる…GPT先生… :ota:

北沢 方邦著『メタファーとしての音』序論読了。このペースだと一ヶ月で読み切れるか怪しいな…

本のサブタイトルにある「音楽的知」は、「音楽が持つテクストの全体性」のこと。
音楽のテクストを構成するのは、鳴らされる音そのものだけでなく、音と音との間の無音の時間、儀礼における音楽の機能、楽器の材質やそれが象徴するもののすべてを含む。
これがテクストの全体性である。
むしろ五線記譜法のような、テクストの全体性をむしろ排除し、音の形式的な (計算可能な) 部分のみを分離・固定化している西欧音楽が特異なのだ。
このことをまず理解することから出発しよう、というのがこの序論の向かっているところだと思った。

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北沢 方邦著『メタファーとしての音』(1986) を読み始めた。
音が記号であるときはどういうときなのか、音の記号化に対してどういう考えが現代の潮流なのかのヒントが見えるかもしれない。

とりあえず序論のほんの数ページだけ読んでみた。
たとえ即興演奏であっても、そこに一定のルールやパターンがあるのならその音楽はすでにテクストを持っており、テクストがあるということはその音楽を構成している音は記号である、という論述であるように読み取った。
とはいえ、そういった音の記号化から脱却しようとしたはずの実験音楽についてはどう論じられているのか、そもそも論じられていないのかが気になるところ。
構造言語学がベースにあるようなので、後々その勉強もちゃんとやらないとな…

作品について「理解しやすい」文章を書かなければならないのだけど、それを連ねていくたび、作品から離れた欺瞞にどんどんなっていく。
どんなに確固たるコンセプトがあっても、作品を実現する間のプロセスにはそんなことと全く関係ないことが起きる。そして作品は結局、そういう偶然的な営みによって発現した偶然的な現象でしかない。
そのうえ、作品も互いの直接の言葉すらも介していない他者は、大衆と何ら変わらなくて、そんな彼らに「理解」をさせることなんてそもそもできると思っていない。

結局やるしかないのだけど、20代のときはこれがどうしても耐えられなくてずっと逃げていた。
今も辛さは変わらないけど、まだ耐えられる思考の体力はついているから、いくらかましだ。

限界まで噛み砕いて、重要な点も繰り返して教えてきたつもりだけど、その一つも理解されていないような解答を出されると…心に来るわね……

【今週の目標】
1. Max/MSP で作品の音部分のプロトタイプを作る。
2. Unity で作品のビジュアルのベースを作る。

創作の方向性が決まった。
作品形態はサウンドインスタレーション。
「難しく考えずとにかくやってみる」がどうしてもできないことに何年も悩まされていたのに、今日、急激に前に進み始めた。
ここ1~2年で少しずつ技術力をつけてきたのが、いよいよ一度昇華されるタイミングなのかもしれない。

【先週の振り返り】
1. 「作者の死」は読み上げアプリで数回聞き流したのみ。
2. OpenCV.jsはチュートリアルの真似だけしてみた。このライブラリ、もしかして非常に便利なのでは。 [参照]

【今週の目標】
1. ロラン・バルト「作者の死」の3ページめ以降を読む。
2. OpenCV.js をかじる。

とはいえ、ここに戻ってきました。戻ってこれたということは、前向きなモチベーションを取り戻してきたということ。
また色々、勉強していきたいと思います。

ずっと創作する人間になりたいと思って、何度も取り組んでいるはずなんだけど、目的や意図というものを持たない潔癖な作品を目指すあまり「自分が作品をつくって他者に共有する」意味を見失ってしまった。
ただ情動のままに創作したい。でもそれには膨大な時間もお金もかかる。創作に集中できるほど、自分を許せていない。私は芸術家のなり損ないだ。

先ほど、何年かぶりにオーケストラコンサートをテレビで見て、とても良い時間だった。
もちろん音は直接ホールで聴くのが一番なのだけど、奏者ましてや指揮者は背中を向けているわけなので、その表情はほとんど見ることができない。
テレビだと、それをはっきり見ることができる。生きている人が一人ひとり音楽を作っているということが、ありありとわかる。それを再確認して、何故だかすごくエネルギーが湧いた。

ルトスワフスキの『管弦楽のための協奏曲』という、私が好きな曲の一つだったのもあったかもしれない。音楽以外の何かを直喩しているわけでもなく、テクニックを強調しているわけでもない、ただ音楽だけを感じられる曲は本当に良い…

またちゃんと、勉強と創作をしよう。

坂本龍一のことは、正直ずっと食わず嫌いをしてしまっていた。その名声が利用されている場面ばかりに出くわしてきたから。
今更すぎるけど、ずっと真摯に音楽をやっていて、欺瞞に敏感な芸術家だったのだと、このノートでやっと知った。
note.com/artespublishing/n/n9b

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