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10ホールズは、娘の卒園式の時、園児たちへの祝福を込めて、パッヘルベルのカノンを C に移調してトライしようと思っていたが、計画倒れ。

結局、段ボール迷路2つと、折り紙で薬玉を作って贈っただけに終わった。まぁ、自分らしい祝福の仕方ができて良かった。子どもに「何でも作れるんだね!」と褒められて、妙に嬉しかった。

とりあえず、10ホールズは一芸として磨きをかけたい。腹式呼吸で、呼吸器系に負荷をかけるのにも適しているので。

娘を喜ばせようと、娘の好きな曲の楽譜を購入するも、カノンと同様、移調の段階で止まっている。Muse Hub という、楽譜を打ち込み、移調も容易にできるソフトウェアを導入したところ。

その前に、個人的な興味で Blender で3次元モデリングにハマっている。やりたいことが多くて、困っている。

長い間、筋トレをサボっていたツケか、少し身体を鍛えただけで、ここ4日間ほど筋肉痛で苦しんでいた。日本拳法の打ち込みは続けていたので、使う筋肉が少し違うらしい。

筋肉記憶のお陰か、囚人トレに関しては、こなしていた負荷には耐えられるようになった。ただ、心肺機能に関しては、不安がある。寒い時期も過ぎたので、そろそろ早朝に走る習慣を復活させたい。

英文の機械速記である Stenotype は、完全にサボっていた。文章のみを書く時には適しているのだが…普段の用途では、未だに QWERTY 配列から脱却できない。

久しぶりなのに、アカウントは削除されていなかった。有り難い。

「プレミアムに登録しないか。文字数制限を解除しないか」と、しつこい Twitter にウンザリしたら、ここで呟くようにしよう。定期的に吐き出さないと、脳内をクリアに保てない病気に、私はかかっているらしい。

今さらながら、ニーチェの思想を学んでみた。ルサンチマン(他人への妬み、嫉み)、ニヒリズム(虚無主義)など、今の日本人、いや、私にしっくりくる考え方が並んでいた。

ただ、彼の素晴らしいところは、そんなことが未来永劫、繰り返すような人生を歩みたいのか?それを何度も繰り返す覚悟はあるのか?「今に見てろッ!」を発揮しないのか?という意思を明確にもって、力強く生きてゆけ、という結論だった点だ。

奴隷として、雇われの状態に身をやつすならば、戦って散ってみろ、という気にさせてくれる。彼自身、発狂した後、亡くなっているのだが、人生は、そういう狂気であふれている。それを行儀よく、表に出さないで、内にくすぶらせて、他人に陰で揶揄する日本人の文化には生産性を感じない。価値がない。

人を集めて、誰でもできるような雑用をやらせる時代は終わった。少数精鋭で、誰も到達できない地点を、自分たちの目的としても良い時代になったのだ、と。そこに、自分たちの生きる意義を見つけなければ、と気付かされた。

壮大な勘違いかも知れないが、他人の考えていたことなど、本人以外、正確に知りようのないことだ。思考の種になれば、それで十分なのかも。

今さらになって「愛」の大切さに気がついた。対象が人間に限らず、自分が情熱を傾けられるモノは、自分が「愛」を実践できる機会を与えてくれる。

多くの人は愛されることに、ご執心だが、いちばん大切なのは自分が「愛する方法」を学ぶことだ、と有名な古典にも書いてある。なぜ、それをしなくなったのだろうか。恐らく、資本主義が加速しすぎて、人すらコモディティ化してしまったからだろう。自分が与えてあげるより、選ばれる存在になることに重きが置かれるようになったから。

科学技術は発展したかも知れないが、この変化によって、多くの人は、自分が心から対象を愛することを忘れてしまったようだ。他人に与えられた「それらしきもの」を信じて均一的な価値観をもつ生物に仕立てられる。そして、社会の都合のよいように使われる。そんな中で、自分自身への愛がない人間が、どうして他人に対して愛をもてるというのだろうか。

近年の少子化は、こういう要因もあるのかと。自分の人生でありながら、自分の人生として歩めていない。金だけで人は動かないのだ。そりゃ、生物として滅びる方向に向かってゆくだろうな、と思えてならない。

最近、様々な事象について、政治家の失言が目立つ。それについて適当に謝罪することで、簡単に受け入れてしまう社会がある。本人は何が問題なのか、真に理解しているのだろうか。凝りもせず、平気な顔をして、違う役割を演じ続ける。

節操もなく、海外の宗教的儀式や、イベントを取り入れる日本の文化の弊害なのか。モノマネをするのは良いが、その本質まで理解せず、表層的に真似をしているだけ。単にノリで「ご時世ですから…」なんて、裏では舌を出していそうなのばっかり。

もう独自路線をいったらいいんじゃないだろうか。人間の価値観など、そう変わるものではない。老人が支配するこの国で、価値観が変化するのは、彼らが死に絶えた後のこと。現状のような「白々しい茶番」を繰り広げ続ける必要もなくなるんじゃないかと。

新年早々、妻に言えないくらいの淫夢を見た。あまりもの異様さに、妻にはできるだけ詳細を伝えた。もし頭がおかしくなって、急死したら、何かのヒントになるかも。

さておき、その話を聞いた時の妻の反応が意外だった。普通は、良からぬことを考えていると、非難されるものと勝手に思っていた。が、「性欲が戻ってきたのか!」と、逆に喜ばれた。人というものは分からない。身近で生活している妻ですら、どんな思考回路をもっているのか不明だと、改めて感じた。

ということは、逆に自分が悪感情を抱いた時、心や頭の中で、どれだけ相手を痛めつけることを想像しようが、相手は知る術がない。中にはハッキリ、言葉として発しないと分からない、知能の低い生命体もいるが。

脳内の自由な世界を構築したい、という想いが更に強くなった。一足先に Matrix の世界観を自分の脳内だけで実現できるように訓練しよう。世の中の大半はゴミで、私の人生とは関係ない、と。

気分を落ち着けたり、何となくボーッとする時間を意図的に設けるために CoC を全力で握る習慣をつけた。No. 2 と No. 3 で、現時点では、まだクラッシュはできない。

No. 1.5 を制覇したので、「男なら腕くらい鍛えろ」と父親に譲ったはいいが、良い気になって No. 2 を購入してから、なかなか前進できないでいた。

今年は、この習慣を徹底することで No. 2 のクラッシュを目標にしよう。

また、情報源として英語は便利だが、偏っている可能性がある。なので、本格的に中国語と独語を学び、原本に当たれるくらいの力を身につけることを目標にする。日本語に翻訳された、各国のニュースでも、視点が異なって面白いのだから、自分で自由に情報を拾ってこられるようになると、思考の幅が広がりそうな気がしている。

多かれ少なかれ、使用する言語によって、何らかの制約があるような気がしていて、それを壊したい。上手な翻訳もいいのだが、原文でどのように考えを論じるものなのか、知っておいて損はないと思う。自動翻訳では得られない、思考回路を構築したい。というのも、日本は早かれ遅かれ、ダメになる国だと思っているので。

長い文章を書いても、それが消えてしまったことは誰しもあるだろう。消えた文章を再現しようにも、同じ感覚ではなく、何かが足りない感覚になってしまって、大きな損失を被ってしまった感覚は、文字を書いて考える人なら、経験することかと。

こういう「勘違い」が、自分はもっと良い文章を書けるのだ、という錯覚に陥らせ、やる気を保たせてくれる。定期的に落ちて、データが消えてくれる方が、脳に良い刺激になるのかも。

Atomic Habbits(邦訳『小さな習慣』)という本で、小さな改善・進歩が積み重なってこそ、大きな成長につながる、と説かれている。当たり前のことなのだが、性急な結果を求める時代の趨勢もあってか、そんな悠長なことは言っていられない、と結果を早く求めようとしてしまいがちだ。そこに詐欺師が入り込む余地を与えてしまう。

何事もある程度、人並み以上に習得しようとするならば、それなりの時間をかけないといけないこと。そして、それに対して正当な対価を受け取るのを当然と捉えることが大切なのかと。科学技術は進歩しても、人間自体は、何も進化していないのだから。そこを勘違いすると、自己を肯定できなくなったり、劣等感を感じたり、と不幸しかない。

David D. Burns 氏の Feeling Good (邦訳『嫌な気分よ、さようなら』)を読んで、他人が自分を、どう評価しようが、どうでも良いと思うようになった。

自分が正しいと思うことをしていれば、疚しい気持ちにもならない。他人の期待に沿わなければ、と思っても、それは自分が対応してあげることではない、と切り捨てられるようになった。

自分の中での思考の堂々巡りは、この本を繰り返し読んで、実践すれば解決するのかと。ただ、社会を見た時、多くの人たちが、この本の中の言葉で「認知の歪み」と呼ばれる、思考の罠にハマっているのが、よく理解できた。こうして、他人を騙し続けてきたのだな、と。

クリスマスや誕生日になると、酒を飲んだり、ケーキを食べさせられ、銀行に行けば、勝手に100歳まで生きることになっている。自分の考えで生きてゆくのに必要な勇気を育てるのに良い本だなと。

本自体は、うつ病などの精神疾患に苦しむ方のために書かれたものらしいのだが。うつ病で、この分量の本を読むのは無理なのかと。「我が家の教典」として、子どもに読ませてやるのに、良い1冊かと。

私が死ぬまでに、「これは!」という本のリストを、子どものために作成しておいてやりたい。

食事を改善したくて、いや正確には、どこまで食事を減らしても大丈夫か見極めたくて、オーガスト・ハーゲスハイマー氏『食事の科学』2017を読んでいる。

よく商品の包装に表記されている「カロリー」は、人間が食事して消化した後に利用できるエネルギー量ではない。その食べ物を単に燃料として見た時に、どの程度のエネルギーになるか、という数値で、何の意味もないらしい。必ずしも「カロリーが高い」=「太る原因」ではない、とのこと。「ゼロ・カロリー」の商品でも、消化後には過剰なエネルギーになる可能性がある、ということ。

肝心の食事に関してだが、良質の脂を積極的に摂取する方が良いとのこと。悪いのは「酸化した油」と「化学的に加工された油」で、身体に良い油は不要であれば、体外に排泄されるとのこと。身体に脂肪として残るのは、実は糖質で、1回の食事で摂取する量は、自分の握りこぶし大程度の量で十分とのこと。野菜も加熱しすぎると、糖質の塊と化してしまう。食べるなら、生の方がいい。ただし、マヨネーズは、上述の「化学的に加工された油」に分類されるので、避けた方が良い、とのこと。

栄養が必要な成長期ならともかく、成人した人が、どんどんカエル体型になるのは、間違ったウソが流布しているからだ、と分かった。

作業に集中するために、白色雑音や、自然の音を延々と聴くことがある。周囲を意図的に暗くして、モニタの輝度も下げると、本当に森や山の中にいるような錯覚に浸っている自分がいる。恐らく、目には、あまり良くないのかも知れないけれども、没頭するのには良いなと。

走る時も、下手に周囲の風景が見えているより、木々や土の匂いに包まれることが大切なのだろう。明るい場所で走るのが好きではない。他人の目が気になる、自意識過剰な自分がいるのかと思っていたが、実はそうではない。没頭できるか否か、時間の密度が濃いか否か、の問題だったのかと。

予測不能な雑音がある環境、例えば、喫茶店など、の方が集中できる、という人もいるが、私は少し違うタイプのようだ。同じ雑音でも、好みがある、ということか。

200万年にも及ぶ、狩猟生活時代の行動が、人間の本能を引き出す、ということで運動が、特に「走る」のが心身に良いという本は、よく見かけるし、実際に何冊も読んだ。それと同様に、「音楽」と「踊り」も、かなりの歴史があるのかと。発表会が始まって、急に物凄い動きを見せられ、唖然としていた観客も、次第に気持ちが融合したのか、無意識のように手拍子を打っていた。

頭の中を空っぽにして、運動に集中する、という点では、走るのも踊りも、似たような作用があるのかも。約1万年前、人類が農耕生活時代に入り、狩猟生活時代の野蛮性を解放する場として「祭り」が生まれたという言説を聞いたことがある。「踊り」はその中心だったのかも。

いちばん原始的なのは「走る」で、「踊る」は少し進化した人類が生み出したモノなのかも。違いは、集団で楽しめる点にあるのかと。私は、かなり内向的で、「人間は社会的動物である」というのはウソだと感じていたが、踊りを通じてなら、他人とも共感できるのかも知れないと、感じた。

繰り返しになるが、非日常的なイベントは、私にとって良い刺激になった。妻も娘も楽しかったに違いない。帰宅して、そのまま寝入ってしまったのは、私だけだったが。ヤツらは、元気いっぱいだ。いや、元気すぎて困るくらいだ。少し元気を分けて欲しい😄

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今日は、娘のダンス発表会があった。当事者である娘より、なぜかワクワクしてしまい、4時半に起床して、かなりスロー・ペースで11km ほど走った。二度寝する訳にもいかないので、覚醒するために、朝から少し重ための朝食を取った。

時間が押しているのに、なかなか起きてこない妻と娘にイラつきながらも、「まぁ、遅れてもいいか…」と、自分を落ち着かせて、ゆっくりと発表会の会場に、家族で移動した。いつもの練習とは違った場所で、しかも大人数の踊り手と観客のいる場所でのダンスは、娘にとっては良い経験になったのかと。離れたところから見ていて、緊張するどころか、笑顔で自分の出番を待っている表情に、思わず顔がほころんだ。ダンスは、あまり覚えていなかったみたいだが😓

人前で自分を披露することに快感を覚えるのは、それなりに役に立つことかも知れない。私は苦手だ。ただ、ストレス発散のカラオケなら、人目を気にしない。デビューは社会人になってからだが。そういう何か、人に誇って見せられるモノをもっていると、そこからどんどん広げてゆけるかも。娘には、多くの人を楽しませることのできる人になって欲しい。そんなことを、ふと思った1日だった😊

それにしても、ダンスもいいな。私も始めてみようか、と思えた。日本拳法にも活きてくる動きがあるかも。

利き手でない左手で字を書く練習を暇を見つけてはやっている。大きな変化は、右手で書く時、ここまで器用で自由に文字が書けるのか、という感動に気づけたことだ。不便さを経験することで、モノの有り難さが分かる、という、どこかで聞いたような話だが、それを身を以って経験できた。

よく右脳活性化とか、創造力が刺激されるとか、理屈をつけたがる人がいるが、純粋に楽しいからやっている。そんな動機でいいんじゃないかと。いちばん面白くないのは、他人に言われて、やらされ感を伴いながら強制されることだ。どんな楽しいことでも、この「やらされ感」が全てを台無しにする。逆に詰まらないと思われていることでも、自分にとっての意義を見出して取り組めば楽しくなってくる。

捕虜に対する拷問で、穴を掘っては埋め、また穴を掘っては埋め、という作業を延々とさせる、というのを聞いたことがある。これも「肉体鍛錬をしている」という意味づけを自分ができたら、楽しい作業になる。そうでないと、ダンベルやバーベルを持ち上げるためだけに、金まで払ってジムに通う、穴掘りと大差のないことが、ビジネスとして成り立つはずがない。どんな意義を見いだすか。逆に、相手に、どんな勘違いをさせるか。それにかかっているのかと。

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文字に書き出す、という行為は「本当に自分は考えているのか?」と自分を試す手段として有効らしい。頭の中にモヤモヤとした状態ではなく、物理的に見える形で実体化させることで、思考を整理できるとのこと。

人間、何も考えていない状態の方が少ないと思う。常に雑念に満ちている状態なのかと。無心になれたら、それはそれでいいのだが、私には難しそうだ。それらを書き留めていないと、どんどん頭から消えてゆくので、記録して、後から見返すのが楽しい。たとえ、それが他人にとっては、どうでも良いことでも、自分には何か、自分でありながら、別の人格が書いたモノのようで、不思議さを感じる。

最近、近所の100円ショップで格安のペン・タブレットを見かけた。書(描)いたものを保持し続けるか、全消去するという機能しかないが、こういうモノが出てくるということは、やはり手書きで何かを表現する欲求が人間にはあるのかも知れない。

であれば、紙で十分というか、紙の方がいいんじゃないかと。もしかして、森林伐採を防ぐために、紙の製造を止めましょうという方向に進んでいるのか?と、少し不安になってしまった。人間の歴史を見ていると、必ずしも良い方向に進化しているとは限らないので。そういうことを言い出す人が主流になったら、本当にそうなってしまうかも。

計算機で文字を打ちながら考えるのと、手書きで考えるのとでは、何かが違うので、両方を使い続けている。違いは自分の中で、まだ明確になっていないが、手書きという原始的な手段には、何かひかれるものがある。

未来の子どもたちは、もしかしたら、手書きという手段を知らないで文字を使うように脳が進化しているのかも。そんなことを、ふと思った。

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ふと、両手で手書きできたら、違う感覚で作業ができるのではないかと思い、時間を見つけては、左手で字を書く練習をしている。意外と書けるものだなと思った。

右手で書いた文字を教師として、それをなぞる方法がネット記事であったが、左手は左手で別の筆跡になるのか興味深いところではある。字の美しさを見ているのは目なので、もしかしたら、右手と同じ筆跡になってしまうのかも知れない。とりあえず、自分で実験してみようと。そして、両手で同時に文字を書けるものなのかも知りたい。

両手で協働する、というのもアリなのかも知れない。実際、珠算で両手を使って高速に計算する動画を見たことがある。見事なまでに両手が連携していた。ただ、左手の役割は、右手に比べて限定的ではあったが。

計算機やスマホがあるのに、わざわざ手書きするのは、思考を深められるから。ペン状のモノを使って字を書くという行為ほど、器用で繊細な行為はなかなかない。そのため、集中力を必要とする。副効果として、脳への血流が増えるのかも。手書きする習慣を捨ててしまうのは、何だか勿体ない、と改めて思うようになった。

パッヘルベルの『カノン』が好きで、最近、何度も聴くようになった。初めて聴いたのは、小学校の卒業式の時だったと思う。氏がどのような情景を思い浮かべて作曲したのか、経緯は何も知らないが、聴く度に新鮮な気持ちにさせてくれる。まぁ、人によって想起するものは違うのかも知れないが。

走る時のプレイリストを作成していたが、別に曲に合わせて手足を動かしたり、呼吸を調整する訳ではない。なので、この曲がいいなと。繰り返しでキリがない感じが「長時間、走る」という行為に、しっくりくる。寒くて体力が限界になったか、時間の制約があって切り上げざるを得ないか、のどちらかで、ゆっくり走るのならば、この曲を聴きながら、延々と走っていたい。

アドレナリンが分泌されるような激しい曲は、あまり好きではない。曲を聴かずとも、イライラすることには事欠かない現実世界なので。ムダに増幅する必要がない。それよりも、他者との空気を遮断して、落ち着くことの方が大切だと感じるようになった。特に、運転している時、他の運転手の野蛮な雰囲気や、傍若無人ぶりを遮断できるのが良い。

Kelly McGonigal『人生を変える運動の科学』2020を読んだ。

「シャーデンフロイデ」という言葉では表現されてこそ、いなかったが、ウルトラ・マラソンなどの、過酷で孤独な耐久系スポーツに人々が挑むのは、他の参加者も同じ苦しみに耐えている、という一体感を感じるためだ、と理解できた。その先にある達成感も大きいのかも知れないが、その過程で乗り越えるべき壁に、ぶち当たった時、何を考えて乗り越えるか。自分一人の力だけでは不可能に思えてしまうことでも、他の仲間となら乗り越えられる、という確信を感じるために、敢えて過酷な運動に参加するらしい。

この一体感に似た感情は「他の皆もやっているから」という、他人が外圧を加える、日本的な精神論ではなく、自分の内側から自然に湧いてくる感情らしい。もともと、自分が自分自身に訴える言葉なのだ。その状況に打ちのめされた時、見栄やプライドは消え去り、素直に他人の助けを受けられる自分になれる。そうやって人間は様々な困難を乗り越えてきた。そして、これからも乗り越えてゆける、と確信するために、日々、過酷な状況に自らを置くものらしい。

下手をすると、搾取する側の人間を助長しかねないが、方向性を間違えなければ、大きな励みになる考え方だな、と感じた。

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