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コロナやワクチンの騒動。全て誰かが金儲けのためにやっている、という陰謀論を信じてしまうのは仕方ないのかと。ワクチンに関しては、既にボロが出ており、こんな幼稚な詐欺、権威にひれ伏すバカな日本人には、ちょうど良い罠だったのかと。

コロナに関しては、アメリカが出資している中国の研究所から、ウィルスが流出している。中国側はアメリカがやらせた、という。アメリカ側は中国がやった、という。真相は分からないし、別に知ったところで何にもならないので、ここに書いて吐き出した後、頭から切り離そうと思うが、明らかに作為的なモノを感じる。

世の中の大半のことは、多かれ少なかれ、これと似たようなことで騒いでいるだけなのかも。アニメ『アンパンマン』で、バイキンマンの存在がなかったら、退屈なアニメになってしまうのと同様、人間も退屈さを嫌うタイプがいるのだろう。

退屈でいられることの幸せさや、自由さを有り難いと思えないのは、一重に教養や趣味の欠如なのかと。一生、暇つぶしをするために時間を潰せることなど、いくらでも溢れているというのに。

中殿筋を痛めた。音楽を聴きながら没頭して走るのは良いのだけれども、痛みに鈍感になって、身体に無理をしていることに気づかない、というデメリットもあるのかと。ちょうど、コーヒを飲んで疲れを感じる物質を検知できない状態に似ている。

お気に入りの曲で、プレイリストを5時間分、作成したのだが、そんなに走っていたら、身体が壊れてしまっていただろう。地道に基礎的な身体の強度を向上させてゆくために、わざとマッタリと走った方がいいのだろう。外に出ると、「競争したがる民族」がいるので、鼻っ柱をへし折ってやりたくなるのだが、無視した方が自分の身体には良いと改めて思った。他人との比較や勝負は、自分を消耗させるだけ、という事実に。

これは別に走ることに限った話ではなく、何事もそうなのだろうなと感じている。資本主義という、過度な競争を促す仕組みの中で、勝てれば楽しいかも知れないが、負ければ面白くない。そんな仕組みと SDGs という牧歌的な目標が両立しようハズがない。どこかでウソをついているヤツがいる。それでも推進するのは、得するヤツ、金儲けするヤツがいるからなのだなと。必ずしも、世の中を良くするために物事があるのではない、と。

「頭のボケやすさは遺伝で決まる」という仮説を正当化するために、LGBT も遺伝的な要因で決まる、という話が引き合いに出されている本を読んだ。全く論理的な繋がりはないんじゃないかと、突っ込みたくなったが、新しい知識は得られた。

それまで、性的嗜好は本人の好みの問題かと思っていた。が、遺伝子が関わる問題で、本人の好む好まざるに関わらないで決まってしまう、という事実に驚いた。別に知ろうと思って得た知識ではないが、異性を選択しなければならない、という画一的な性的嗜好を強要される社会は、さぞ生きにくいことだろうなと思った。

自分のことではないので、どれほどツラいことなのか想像でしかないが、「自分の普通が社会では非常識」という事象は、誰にでも1つくらいはあるのではないか。

現代になって、多様性が叫ばれるようになった。まぁ、それも「アメリカ様」が言い始めたからなのだろう。頭の固い老人が支配している、日本からでは、まず出てこない発想だろう。全ての人が幸せになる世界を実現するには、今までの画一的な価値観で縛るやり方では機能するはずがないのだなと、改めて思った。

それでも社会は変わらないのだけれども。老人が死に絶えた後だろうな。

最近、Highly Sensitive Person (HSP) という名前で呼ばれているが、単に内向的な性格と理解している。社会が、外交的であるべきだ、という勝手な押し付けをするだけで、能力的に劣っている訳ではない。

外交的な人間は、人と関わることでエネルギーを得るらしい。内向的な私は、大量のエネルギーを奪われてしまう。直接、人と関わらなくとも、読書という手段で先人から学ぶことはできる。飲み会などで、偉そうげな講釈や説教から学ぶより、本を書くほどの言語力をもった人間から学んだ方が、何倍も役に立つ情報は得られるのかと。

ただ、生きてゆくために、人との繋がりを広げる必要がある、と信じ込まされている。それは、究極的には「良いカモ」を見つける手段でしかないのかと。本当に重要な人との繋がりは、無節操に人間関係を広げることで得られるものではないのかと。

スマホが普及して、ネットで人と繋がりやすくなるにつれ、内向的な人間にも大きな機会が訪れている。直接の対話が役立つこともあるが、必要のないストレスやエネルギー消耗であることの方が多いと感じている。もっと自分自身の世界に浸った方がいいのかと。

ある本で 1.2345679012... という循環小数の平方根が 1.11... となる、と書いてあった。疑り深い私は、計算してみたが、どうも答えが合わない。本に誤植があるのでは?と疑った。

結局 1.2345679012... を1.234567[8]9012... と読み間違えていたので、答えが合わなかったという。

とりあえず、今朝は5時前に起床して1時間ほど走る気になれたので良かった。ちょうど1時間くらいなので、ジャッキー・チェンの『ポリス・ストーリー』と、ナルトの『Strong and strike』の辺りだった。

映画やアニメの曲は、特定の映像が頭に浮かぶのが良い。自分が主人公になったような「勘違い」が脚を加速させてくれる。「今、いちばんカッコいいところだ」なんて、勝手に頭の中で私が思っているなどとは、すれ違った人たちは知らないだろう。そういう没頭感がいいんじゃないかと。

走ることのみに没頭するために、敢えて曲を聴かないで、自分の呼吸のみに集中していた時期がある。明らかにタイムが違う。気分を高揚させる曲があった方が、やはり良い。寒い中、走ることが苦行ではなく、何やら「カッコいいこと」を実践してきたような気になるのが素晴らしい。そういう自己満足を得るだけで十分だなと気づけた。

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「家事や掃除をする」という条件で、妻が娘を外に連れ出して遊んできてくれた。自分の自由な時間が確保できる、と考えていたが、結局、熟睡していた。何か疲れていたのだろう。読もうと思っていた本も、あまり進まず。

音楽が人間の心身にもたらす効果について、『人生を変える運動の科学』2020という本を読んだ。音楽には、運動時の苦痛を和らげたり、運動能力を高める効果があるらしい。妙に納得してしまい、ランニング時のプレイリストを再構成に没頭していた。

曲は自分の好き嫌いで選んだのだが、そのうちのどれが一番、自分にしっくりくるのか、実際に聴きながら走って、記録を取ってみようと。映画『ロッキー』シリーズで流れる "Eye of the tiger" が良い、とあったので、それも含めてみた。

最終的に、合計5時間のプレイリストになった。明日から試すのが楽しみになった。最近、早起きできなかったり、早起きしても寒いのでサボったり。やらない理由を挙げ始めると、非常に創造的になってしまうので、やる理由を作りたかった。あっという間の一日だった。

ふと断食に興味をもち、何か良い入門書はないものか、と探していたら、10年間、断食しているとかいう極端なモノが出てきた。光合成でもできるようになるのだろうか。

断食に関して、最初の出会いは、仕事でイスラム系の方が1ヶ月の断食をする、という話を聞いたことだった。その時は、別に個人の好きにやればいい、と思っていた。

その数年後、集中力に関する書籍で「リーンゲインズ」という、16時間以上、食事を摂らない生活リズムが良い、と書かれていたものに遭遇した。そういうのに影響されやすい私は早速、試してみた。

その方法が悪かったのは、コーヒを飲むことで、飢えを誤魔化すのがセットになっていたことだ。これで私は体調を崩してしまった。睡眠不足とストレスが原因らしい。医者からは肝機能障害と診断された。

胃腸を休めるために、食事量を減らしても問題ないのではないか。実は食べすぎているのではないか、という疑念が拭い去れなかった。結局、健康的で自然に食事量を減らすのが良い、という結論に落ち着いているのだが、食べなくても済む、という超人的、いや、仙人的な生活に憧れが未だにある。

因みに、修行次第でカメハメ波も出せる、と私は信じている。アホなのかも知れない。が、ロマンがある。

妻が『金瓶梅』という中国の古典を強く勧めてくる。邦訳も出ているのだが、内容が原文でも難解らし。解説のために非常に噛み砕いた内容の Podcast を妻は聴いて、私に本を勧めてくる。

あらすじは、利己的で非常な主人公が一商人から、政治力をもつ人間に昇り詰めてゆく。が、最終的には、自分がやってきたのと同じように、より狡猾な相手に出会い、自滅の道を歩んでゆく、というものらしい。

全体を聞くと、因果応報というか、盛者必衰というか、そんな感じかと。が、妻としては、詰めてゆく人心掌握術に注目して欲しいとのこと。漫画『ベルセルク』で言うと、蝕の前までが見事に描かれているらしい。

邦訳でも読む気が出てこないくらいなので、ネットの情報を調べてゆくと、どうやら中国人には古典的な官能小説というイメージがあるらしい。それくらい主人公は盛んな男とのこと。少しは興味が湧いてきた。

まぁ、バランスの問題かな、と。明らかに Twitter とは違う感じがする。「メディアに支配されていないから」ということなのかも。自分の人生と全く関係のない話でも、流せるものと、流せないものがある。メディアは、これまで生き延びてきただけあって、多くの人が流せないネタを調達してくるのに長けている。

最近は、古典を読んだ方が良いと思うようになり、手始めにイソップ物語や、科学の歴史をオフラインで読む方が良いと感じている。少し寂しさを紛らわすのに、適度な距離感を保ってくれる SNS は大切な存在なのだけれども。

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Mastodon の方が各自の興味について語っている感じがして、読んでいて退屈しない。素晴らしいサーバに登録できたのかも。場所が変われど、政治やニュースなど、他人が扇動するがままに流されて、意見を絞り出して呟くような、妙な圧力は感じない。

特に素晴らしいと感じたのは、私のキーワード・フィルタが発動することが少ないこと。まだ使い始めたばかりだからかも知れないし、あまり機能を理解できていないからかも知れないし。ともあれ、今のところ快適な環境だと感じている。

登録していない番号の拒否には、私も時間を必要とした。登録外から、かかってくる電話番号を登録し、着信拒否番号として設定してから、殆ど着信がなくなったことを確認できてから。なので、数年を必要とした。

Amazon で注文をしてもいないのに、家に訪問してくる人間よりも、本当に必要な用件で掛けてくる人間は少ない、と確信できた。お年寄りがオレオレ詐欺に引っかかってしまうのは、着信拒否の設定が分からないからではないかと。

もう1つ厄介なのが、携帯の SMS だ。知らない番号からでも、メッセージが送られてくる。これにも拒否設定があって然るべきなのに、どうやらできない仕組みになっているらしい。この造りには悪意しか感じないなと。

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登録していない電話番号や、非通知の場合、自動的に拒否する設定にして何年も経過するが、それで困ったことはない。本当に必要な連絡なら、メールなり SMS などで届くモノだと考えているので。

その上で、今更ながら、携帯の着信音の設定に凝っていた。かかってきた相手によっては、対応したくない気分の時もあるので。出先で電話がかかってきても、自宅に到着して落ち着いてから、しかも、気が向いた時だけ、電話を返す。大切なことなら、留守電くらい残しているはずなので。

現代人は常に繋がっていたい、という人が多いらしい。私はそうでもない。この時代にあっても、1人の時間は貴重だと思っている。仕事の義務でもないのに、ずっと自分のことを報告するのに夢中になれる方が不思議でならない。他人とは自分の、ある一側面だけしか共有できない、分かり合えないものだと思っているので。

そんな私には、スマホは本当にオーバースペックな代物だと思ってしまう。様々なことをやりたいなら、計算機の方が断然、良いではないか、とも。

職人は道具が身体の一部になったような感覚をもつ、という。実は職人でなくとも、愛着をもてば、身体の一部であると、脳は勘違いものらしい。子どもの頃、ゲームなどでキャラクタが攻撃を受ければ「痛ッ!」とか言ったりしたものだ。少し大げさな気はするが。

メタバースで、アバターと呼ばれる、自分の代理のキャラクタが活動する空間で、同様のことが起きるものなのか。自分の感覚からすると、あまり思うようには感情移入したり、自分の一部とまでは感じないのではないかと思っている。

最終的に意思疎通を図る手段は言語や仕草が主体になるので、今の SNS に3次元のキャラクタがくっついただけのオンライン・ゲームのようなモノにしかならない気がしている。

これも世代によるもので、それが普通だという感覚で育つと、順応してゆくものなのだろうか。お年寄りもスマホでネット社会に順応したことを鑑みると、それが当たり前になっているのかも知れない。少なくとも、今はそんな未来の到来に、私は懐疑的ではあるが。

先月、保育園に通う、娘の運動会があった。そこで普段、娘の口から聞いたことのある子どもたちと直接、会う機会がもてた。顔と名前が一致して、こんな感じの子と接しているのか、と。

それから1ヶ月が経過したが、娘の友だちの1人が転園してしまったらしい。さぞ、娘も寂しい思いをしているに違いない、と思っていたら、本人はそうでもないらしい。「◯◯ちゃんの、さよなら会」をしたよ、とだけ教えてくれた。

人との出会いと別れは、結構、精神的に堪えるものがあると思いこんでいるだけで、実はそうでもないのかも。これも、義務教育などに巧妙に組み込まれた「刷り込み」だったりするのだろうか。

世の中には様々な人がいるが、よく考えたら、出会っていない人の方が圧倒的に多い。別れは、また次の出会いの始まりかも、と考えると、そう悲しいものでもないのかも。

今の時代なら特に、オンラインで繋がり続けることも可能だし。そのことを娘が理解しているとは思えないが。

Twitter で140文字という制限があったので、意見を小出しにして、自分の中のでの考えを明確にできなかったのかも。

いざ、500文字でもいい、となると、書ける内容にも幅が出てきて、自分でもこういうことを考えていたのか、という発見がある。

同時に、自分の考えに矛盾がないか、自己検閲が強くなってしまう。まぁ、それも慣れてくるのだろう。まとまった言葉を頭の中に入れておく容量が大きくなるのに越したことはない。

ただ「簡潔に何が言いたいのか」がボヤケてしまう嫌いもあるのかと。そこは、まだまだ慣れが必要なことだなと。人間は制約がある環境でこそ、知恵を働かせる、という。時間を区切るのもそう。文字数もそうなのかも。

純粋に頭の中にあることを、特に考えもなしにブチまけてみるのも、それなりに快感なのかも。実際に投稿してみて楽しいと感じた。

運動が身体にも脳にも良いことは、直感的・感覚的に理解しているのだけれども、科学的な根拠を欲しがるのは、ある種の病のようなものかと。

かく言う私自身も、運動の効果に関する本を数冊、本を読んでみたが、ドーパミン、エンドルフィン、内因性カンナビノイドなどの脳内物質が、心身に良い影響を及ぼすのだそうだとか。言葉は違えど、ほぼ同じことが説明されている。

それでも、類書を読んでしまうのは、自己承認欲求を満たしたいがためなのだなと理解できてきた。心身に良いのなら、勝手に継続すればいいだけなのに、それ以上の意味づけをしたい。人間の宿痾のようだ。いや、私だけの習性なのかも。

新しい知識が得られてゆくのならば、まだ意義は分かる。が、大抵は自分がやっていることの正しさ、根拠、支持者が欲しいだけなのだろう。

そういう本に割く時間をバッサリ切り捨てて、新しい地を開拓してゆかないと、生きていてワクワクする気持ちがなくなってゆくような気がする。それが「老い」というモノならば、抗いたい自分の気持ちは自然なモノなのだろうか。うまく言葉にできないが、何か違うモノのような気がしている🤔

今朝は走る予定だったが、昨夜、ふと「Mastodon を始めてみよう」と思い立ち、登録だけを済ませていた。

今朝は連日の運動で筋肉痛になっていたのもあり、走るより、Mastodon で遊んでみようと時間を過ごしていたら、いつの間にか、この時間になっていた。

多くの文字を投稿できる方がいいな。Twitter で鍛えてきた文章作成の筋肉が、ここでは存分に発揮できる。筋トレで言うと、重量を上げた感じになっている。残り文字数を見て、0になるまで、ツラツラと文章を流せるようになりたい。

身体の方は、最近、始めた、限界回数まで2秒1回ペースのスクワットのため、筋肉痛に苛まれている。現時点で361回まで到達した。目標は3,000回。道のりは長い。筋肉の回復を待ちながら、下半身を鍛えるということを、半強制的に学ぶことになった。

回数は順調に伸びているので、モチベーションは保てている。何ごとも数値的に記録に残して、進捗状況を見て1人でニヤニヤするのがいいなと。

Mastodon には、以前から興味があったものの、Twitter には、これといった不満もなく呟いていました。

メディアが煽るがままに、早速、こちらに登録してみました。文字数が多いのもあり、こちらの方がいいなと思いました。

企業が金儲けを目指し始めたら、面白くなくなるのを幾度も目の当たりにしてきたのもあります。Netscape とか、Java とか。

現実世界と異なり、緩い繋がりが作れる場、楽しく呟ける場として活用できたら、と考えております。

Fedibird

様々な目的に使える、日本の汎用マストドンサーバーです。安定した利用環境と、多数の独自機能を提供しています。