PARCO劇場で『桜の園』を観てきた。
舞台上に設置された巨大なコンクリートの固まりのようなものが、開演と同時に吊り上げられ、作業員らしき人が舞台を横切ってゆき、透明なビニール?ポリ袋?を被せられたキャストと家具が現れる。ああこれは石棺で、ここは帰宅困難地区なのか、ととっさに連想したが、その後はあまりそういう要素はなかったので、私が勝手に飛躍しすぎたかもしれない。
没落してゆく貴族が手放さざるを得なくなる桜の園の、失われる古きよきもの、子ども時代の遠い思い出というイメージを強調して感傷を呼び起こすこともできる戯曲だと思うが、この舞台は観ていて「百姓の子であったロパーヒンの立場に立てばこの話は、自らを支配し抑圧してきたものを経済力で圧倒し、土地を奪うという下剋上のサクセス・ストーリーでもあるよな」という思いすら過ぎった。
男たちが(兄のガーエフも含めて)ラネーフスカヤに群がっているのも、薄ら寒い気持ち悪さがあった。ラネーフスカヤ役の原田美枝子さんはたいそうチャーミングで、説得力がありました。八嶋さん・成河さんをはじめみんなすごく上手だった。村井國夫さんは存在感がすごかった。
stage.parco.jp/program/sakuran

一夜あけて、あの石棺とポリ袋は「封印された古いもの」の象徴として舞台の上空に吊られていたのであって、具体的な直喩ではなかったのかもと思いはじめている。
幕切れ、すっかりお金がないはずの貴族たちは、大仰に嘆き悲しみながらもうまいこと逃げ出す。若者たちは新しい世界へ出発する。そうして皆に見捨てられた(と言っていいだろう)気位の高い老いた使用人だけが取り残されて、ゆっくりと下りてきた石棺の中に閉じ込められる。そのことを誰も知らない。

フォロー

あとからあとから思うことが出てくるのだが、「ロパーヒンの言うとおりにすれば最悪の事態は免れた」というのも違うと思うんだよね。桜の木をすべて伐り倒し、別荘を建てて観光地にすれば収益化できる、という現実的かつ資本主義的な解決策がほんとうに良策なのか?どちらにしても「桜の園」はなくなってしまうのに。
ロパーヒンのような在り方が「賢さ」とされるのがまさに今の日本だな、と強く感じて、抵抗感があった。

ただロパーヒンの言葉に耳を貸そうともせず、「アーニャが頼めばいけ好かないが金持ちの親戚が援助してくれるかもしれない」「アーニャが裕福な男と結婚できるかもしれない」とすべてをいちばん若いアーニャに押しつけ、現実逃避しているラネーフスカヤとガーエフの姿は、もちろんそれはそれでつらいものがある。

ログインして会話に参加
Fedibird

様々な目的に使える、日本の汎用マストドンサーバーです。安定した利用環境と、多数の独自機能を提供しています。