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早川タダノリ さんがブースト

天気予報サイトを見てたら「多様性ってなんだ」という広告が出ており、なんじゃと思ったら自衛隊員募集の広告であった。なんかこう、イスラエルの「ピンクウォッシュ」を彷彿とさせるな。多様性からもっとも遠い組織じゃねえか。

早川タダノリ さんがブースト

ほんと関東大震災時中国人虐殺ってのは多くの方の視界には入ってないんだよね。

ヘイトクライムを語る時に関東大震災時朝鮮人虐殺からいまの北関東で行われている悍ましい憎悪煽動まで、それが延長線上にあるという話をしたとして、その事自体はまったく否定するつもりはないのだか、そこに嫌中や関東大震災時中国人虐殺は入ってこない事がママある。

知らないのか巻き添えという認識なのか、いずれにせよ視界には入ってない。

ここにね、わたしが関東大震災時中国人虐殺に拘る理由がある。

でもねえ、あんま中国人中国人言ってると、愛国心から来る行動なのかとか、民族に誇りを持ってる人なのかとか、別に否定的な意味ではなくともそんな感じに思われているんじゃないかと心配になる。

わたし、いかなる国家に対しても「愛する」という意識を持つ事を拒否してますし、同様にいかなる民族に対しても「誇り」とか「愛する」とかいう意識を持つ事も拒否しているので、そう思われるのは非常に悲しい。

なので、わたしが拘る必要がないように関東大震災時中国人虐殺とかもっと取り上げて欲しい。

理論的あるいは政治的正邪しかものさしがないことのおかしさをえぐる思想がないと、軽薄にも「正義に疲れて」しまうのではないか説

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しつこく埴谷雄高を引用して誠に恐縮でありますが……

「人間が条件によって可変的であるとの革命的な認識は、まず、固定したかたちの敵を容認しなくなったばかりでなく、一般に人間を敵として設定することをも不可能ならしめたのである。もし与えられた条件が変革されれば、それまで敵と見られたものも敵でなくなってしまうばかりか味方にさえなるのであって、敵は与えられた条件自体であるというその認識はひたすら、人間のみを敵とすることによって冷酷な死と流血を歴史のなかに記録してきたこれまでの政治のかたちに、ひとつの決定的な終止符を与えるまさに革命的な転変なのであった」(埴谷雄高「政治のなかの死」1958年)

おのれを含むところの人間の可変性についての認識を支えるのは、〈人間のみを敵とすることによって冷酷な死と流血を歴史のなかに記録してきたこれまでの政治のかたちに、ひとつの決定的な終止符を与える〉ことをめざす思想的背骨
QT: mastodon-japan.net/@lematin/11
[参照]

るまたん  
やっと読んだ。ひとことで言うと、何を言いたいのかよくわからない。 何かを言ってしまって「それは間違っている」と言われたとして、なら間違っているかどうかを考えて、間違っていたなら修正してより良い正義を目指せばいい、それだけの話なのに、その可能性はないことになってる。なぜないのかも説明されていない...

「私も「正義」の被害者です!」と一勢に手を挙げるありさま

だんだん「率直に意見を述べて議論をできない社会、それはたしかに民主主義の危機である」規定の寝ぼけぶりに腹が立ってきたわ……
QT: fedibird.com/@hayakawa2600/113
[参照]

早川タダノリ  
星野寄稿へのコメントプラス、今朝見ると執筆者がさらに増えていてまたびっくり。「カルト」規定に疑いがなかったり、「率直に意見を述べて議論をできない社会、それはたしかに民主主義の危機である」と〈民主主義は工場の門前で立ちすくむ〉状況どこ行った?的なものなどを見た。 「傲岸、卑屈、執念――これが階級...

振り回される「大義」を踏みつけに行かず、ささやかな「正義」ばかりをなじって見せるしぐさ、とも言える。

早川タダノリ さんがブースト

そんなに「正義の暴走」が怖いのなら八紘一宇とか大東亜新秩序とかそこからの加害性と徹底的に向き合えばいいのに怠惰だなこいつらは。「文化大革命」とかなら喜んであげつらうくせに。MAGAにも知らんぷり。

星野寄稿へのコメントプラス、今朝見ると執筆者がさらに増えていてまたびっくり。「カルト」規定に疑いがなかったり、「率直に意見を述べて議論をできない社会、それはたしかに民主主義の危機である」と〈民主主義は工場の門前で立ちすくむ〉状況どこ行った?的なものなどを見た。

「傲岸、卑屈、執念――これが階級社会を反映した組織の枠内に必ず起る精神の三位一体である」(埴谷雄高「政治のなかの死」1958年)と、スターリン批判のころからえぐり出されてきた半世紀以上の歴史があるわけで、それを「カルト」性と特徴づけるのはあまりにも平板であるのみならず、〈政治〉にまとわりつくその傾向の普遍性を突き出すよりも、単に外部化と排除しかもたらさない。それこそがまた、絶えず「敵」とのあいだに線を引き続ける、〈政治〉の再生産ではないのか。

早川タダノリ さんがブースト

だいたいの場合、経験上、「分断」「分断」嘆いたり騒いだりしだすと、その事象から私のような存在は少数者として切り捨てられる事になる。で、嘆いたり騒いだりしている人は高みの見物するポジションで楽勝な感じでそこにいる。

だいたいの場合、経験上、「それぞれの正義」「正義はいろいろある」と嘆き悲しみだすと、その事象から私のような存在は少数者として追いやられる事になる。で、嘆いたり悲しんだりしている人は高みの見物するポジションで楽勝な感じでそこにいる。

まあ、そんな感じ。

早川タダノリ さんがブースト

統一協会の話題が盛り上がったときもカルトという単語をできるだけ使わないようにしていたんだけど、星野なんとかさんの文章はカルトと名指すことの問題が詰まったような内容だった。
他者をカルトと名指すとき、思考停止しているのはむしろカルトという言葉を使う人の側なんだよ。何かしらの主張や所属意識を、その内容を考慮せず「みんな熱心だから」「結束が強いから」くらいの理由でカルトと名指し、議論する余地のない悪だとラベリングする。そうやって無効化してしまうことこそ思考停止じゃないのか。

昨日から話題の朝日新聞星野智幸寄稿、これについているコメントプラスを読んで、いろいろびっくりした。

いずれのコメンテーターも、ひどく「正義」に疲れていたり、「正義」に依存なさっていたご様子だが、それはホントなのか? それってバーナム効果なんじゃねえの?……と思うが、いずれのコメントにも欠けているのが、こうした「正義疲れ」を満喫できる自分ってなんなの?という自問だ。

asahi.com/articles/ASS8V026WS8

「「正義」の無謬性に完全服従し全身を預け、個人を重視するはずのリベラル層が「正義」に依存するために個人であることを捨てている状況。」(能條桃子)

おいおい、「個人であることを捨ててる」ホントかよ的に唖然。

「この虚しさを振り切っていくつか論考を書いたのだが、そのとき私の胸に去来したのが「正義」への依存だった。自分は正しい指摘をしている。そう自らを鞭打って、今やるべきことをしなければならないのだと自らを納得させ、進まない筆をなんとか動かした」
(平尾剛)

えっ、それは「正義への依存」なんですか?

「純粋に善や正義を求め、悪を排そうと正義感をかきたてると、集団も自身もカルト化するのになかなか気づかず、ブレーキはかけられないのだろう。」(江川紹子)

はいはい、カルトカルト……

早川タダノリ さんがブースト

2024/8/27付の星野智幸の文章
asahi.com/articles/DA3S1601947
複数の人がリンクしながら好意的に書いているのを読んだのだけど、よさがいまいちわからなくて、話の起点になっているらしい2013/12/25付の文章も都合読んだ。
asahi.com/articles/DA3S1601947
それで、ちょっと呆れているのですが、すみません、どうして10年たってこういう心境になっている、この人の言葉のどこがありがたいのか、余計にわからないですよ。。。

色々わからないですが、「洗脳」だとか「カルト」だとかこんな雑に言われても。

それで、この雑さが歓迎される界隈へのアピールで、トランス排除主義な人たちが、トランス人権を主張しているみなす人たちをひとまとめにして、「カルト」呼ばわりしているのですが、星野智幸の上記の寄稿程度の修辞が褒められてしまうのだとすると、あの種の攻撃は有効ということで、諸々いやな風潮だなと思う。

早川タダノリ さんがブースト


この手の頭ばっかり口ばっかりで手前は何もしない連中がチヤホヤされていることに私は失望を通り越して怒っています。
さんざ繰り返されている「不正義」に対して何かアクションを起こした事があるんでしょうかね?このちんちくりんは。
私が彼のような人間と相対したら問答無用で頭髪を毟ります。たまには手前で動いてみろよ、と。

早川タダノリ さんがブースト

「リベラルに疲れた」とか「正義への依存だ」とかどうしようもねえ反応が多くて、それに疲れるわけですが、この国は、ともかく与党に対する疲れ、というか、与党がとにかく居座っている。メディアも、それに対して何も言わない過去の戦争犯罪も開き直っているし、謝罪したからいいだろ(それは謝罪でも何でもない)とやっている。

選択性夫婦別姓だって、本当にろくでもない理由で反対している鮮明な馬鹿のせいで通らないし、安く使える奴隷としか外国人を扱っていない。

とにかく、ここ数ヶ月は私は上がいたぶってくることに関して、どうしたものかねぇと思っているし、百合子がいくら票を減らしたとは言え、再選してしまったことに対する怒りもある。なんでこんなに絶望的に無関心でいられるんだろうか?
そして、それは難しいことなのだろうか?

余裕がないからこそ、そこに割けるスペースがないのかもしれないけれども、今なお日本はパレスチナに対する一方的な虐殺を黙殺しているし、愚かなほどに巨額な軍事費で兵器を買っているし、終わるはずがない基地を沖縄に建て続けて、兵士が起こした犯罪を黙殺している。目をつぶったとしてもね、それは起こり続けているんだよ。

早川タダノリ さんがブースト

「正義の暴走」なんてのは、便利な概念でござんして、どんな思想を持っていようが、付和雷同の結果であろうが、逆に大勢の意見の方が正しかったのに、それをガン無視した結果だろうが、権威とされる何かに唯唯諾諾と従った結果だろうが、逆に権威とされる何かを全く信じなかった結果だろうが、自分の考えで動いた結果だろうが、自分の考えを捨てて大勢に盲従した結果だろうが、ともかく、良くない結果さえ起きれば「正義の暴走」で説明が付いちまう。
要は「正義の暴走」なんてのは「世界は5分前に、まるで遥か昔から存在し続けたかのような初期状態で生まれたんだ」仮説みて〜に大概の事を説明出来るからこそ、逆に何も証明していないし、未来を予測するのには役に立たない。
「正義の暴走」なんてモノが存在するなら、それを防ぐのに一番役に立たねえ代物は「正義の暴走」って概念それ自体だ。

リプで「疑似宗教化した社会正義イデオロギー」なる文字列を頂戴したが、あまりにも陳腐な規定すぎて共感性羞恥しか覚えん。これ、理屈っぽい人だったら、「疑似宗教をどう規定するのか」とか「社会正義はイデオロギーなのか」とかめちゃくちゃ突っ込むと思う。

最初に読んだとき、「「弁証法的唯物論」の中の人は一体誰なんだよ」と気になってしょうがなかった

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例えばスターリンの『弁証法的唯物論と史的唯物論』で、「弁証法は…とみなす」「史的唯物論は…とみなす」表現が死ぬほど出ており、概念が主体の地位を簒奪して、人間の認識活動が消失している。

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