「正義」とか「悪」とかを実体化して語るところからして落とし穴で、担い手である人間が消える。前掲の関東大震災時の朝鮮人・中国人虐殺にしても、ある人間たちが・特定の信念にもとづいて・虐殺したというしくみを、抽象化して文学的修辞におとしこむのよくない。
「「やつら」を懲らしめようとする正義の暴走です。関東大震災の時の朝鮮人虐殺が、まさにこれでした」
https://www.asahi.com/articles/ASR9X3SH1R98UPQJ00J.html
佐藤冬樹『関東大震災と民衆犯罪』を読むと、自警団構成員は「殺してもいいという国家のお墨つき」が出たとして倫理のリミッターを外していたことが指摘されている。
「民衆は国家の後ろ盾を強く意識し、「公許の殺人」を犯したと認識していた」
「国家との間には、前線の兵士同様に「殺しても良い」という黙契が成立していた。当初の経緯を考えても、彼らがこの黙契を信頼するのは当然であった。言い換えれば、彼らは町や村を代表して、朝鮮人に「報復」を加えた」(以上、上掲書)
「俺がやる」と「やってもいいらしいからやる」との違い。「せっかくだから殺した」的な証言もあった。
「正義の暴走」と(いささか紋切り型に)抽象化する前に、国家という権威が許せばぶっ殺してまわる根性をえぐり出したい。
(2023年10月3日のツイートを再掲)
熊本県天草市天草町下田北にある「轟[とどろき]の滝」周辺で水遊びをして下痢や嘔吐[おうと]の症状を医療機関に訴えた人が相次いでいる問題で、熊本県が一帯の水質を調査した結果、ノロウイルスが検出されたことが27日、分かった。同日午後3時から、県が記者会見を開き、詳細を説明する。
【独自】天草市・轟の滝、水質調査でノロウイルスを検出 熊本県が午後3時から会見|熊本日日新聞社
https://kumanichi.com/articles/1528248
伊藤隆さん死去 近現代政治史の第一人者、オーラルヒストリー開拓
https://www.asahi.com/articles/ASS8V2PHLS8VUCVL00XM.html
謹んで哀悼の意を表します。伊藤先生の日本近代政治史への貢献は大変大きなものがあります。私は一応、伊藤先生の孫弟子にあたり、伊藤先生の「革新派論」に基づいて論文も書けば授業もやってます。
しかし、東大を停年された頃以降の伊藤先生の行動や言動については、かなり批判があることも事実です。3年前の辻田真佐憲氏によるインタビューを読んで、さすがにがっくりして私も思うところをツイッターに長文で述べました。今も思うところは変わりません。
https://x.com/bokukoui/status/1383797191320342533
呉座勇一さんの一件に関連して述べたことと同じですが、「自分はイデオロギーから自由に実証をしているのだ」というイデオロギーにはまってしまうと、東島誠先生の言葉を借りれば「ネトウヨ化」してしまうのではないでしょうか。伊藤先生もその例だったのではないかと……
蛇足:70年代の論壇誌に散見される「セクト」批判はテキトー「日本人」論とか「集団主義な日本人」観とかも援用されながら展開されているものがあったが、そんな民族的特性に還元しなくても、ある種の「政治」に必然的につきまとう普遍性を持ったものではなかったか。
このへんのナショナリズムについての認識から、「一人ひとりが自分の中にある依存性を見つめる必要がある」という方向性まで、なんともピンボケというか、なんつーか
「長年の経済的停滞等で疲弊したところに、東日本大震災と原発事故が起こって自分を支えられなくなった日本のマジョリティーの人たちは、絶対に傷つかないアイデンティティーとして「日本人」という自己意識にすがるようになった。個人であることを捨て、「日本人」という集合的アイデンティティーに溶け込めば、居場所ができるから。それは依存症の一形態であるが、誰もが一斉に依存しているから自覚はない。日本社会がそうしてカルト化していく傾向を変えるためには、強権的な政権への批判だけでは不十分で、一人ひとりが自分の中にある依存性を見つめる必要がある」
社会の党派的分断が最近起こったことであるかのように語られているの、珍しくもないありふれたものだが、目にするたびに驚く。
「現在のぼくは、政治や社会を語るこういった言葉が、単に消費されるだけで、分断されていくばかりの社会において、敵か味方かを判断する材料でしかなくなっていると感じています。」(寄稿)言葉を消費されて 作家・星野智幸 https://www.asahi.com/articles/DA3S16019473.html
これまでの体験
「有機栽培だからおいしい」→わからん
「愛情をこめて握ったからおいしい」→わからん
「タイ米まずい」→普通においしい
だが、哲学や政治性を欠いた表現者に「頭を空っぽにして楽しめる純粋な娯楽作品」を創造出来るのだろうか??
https://x.com/sho_ho_Yamasan/status/1827610646101553527
『シモーヌ』vol7まだAmazonで普通に売ってた。1650円(税込)でこれはお得だとおもうよ
[排除と抑圧への抵抗]
〇米津知子 わたしのからだを手放さないために――ソシレンの歩み
〇優生保護法改悪阻止運動をめぐるふたつの立場
・横田 弘 産む・産まない権利とは
・志岐寿美栄 女性解放運動にとって障害者解放とは
・荒井裕樹 「弱者の連帯」という難問――「優生保護法改悪」をめぐる女性と障害者
〇皆本夏樹 神話に抗って生きる
〈中略〉
[公共政策と性]
〇斉藤正美 自民党保守派と宗教右派の動きを警戒する――「リプロダクティブ・ヘルス/ライツ」を手放さないために
〇山口智美 宗教右派の動きとLGBT排除
[信仰とフェミニズム]
〇橋迫瑞穂 『自然なお産』言説とフェミニズム――「産む身体」の聖性を巡って
〇栗田隆子 信仰と抵抗――宗教の内側から
「堕胎罪を女の問題として囲い込むことをせず、優生保護法と母子健康保健法とあわせて「魔のトライアングル」と呼んでいた」というのはいつごろのことなのか・どんな意味だったのか、僕はにわかにはわからないが、文脈から想起されるのは、リブと障害者運動の対話/議論。
『シモーヌ』Vol.7(現代書館、2022年12月)掲載の横田弘「産む・産まない権利とは」と志岐寿美栄「女性解放運動にとって障害者解放とは」、さらにその論争についての荒井裕樹「「弱者の連帯」という難問 「優生保護法改悪」をめぐる女性と障害者」を何度でも推したい
QT: https://www.threads.net/@yutorispiel/post/C_FPkItyDE6 [参照]
フェミニズムが「これは女の問題なのだ」と囲い込みをすることは、一方では性差別を可視化し抵抗の主体を立ち上げることは可能になるかも知れないけれど、他方ではそこで、その「女の問題」とされた問題を根底で貫いている健常主義や優生思想、ナショナリズム、家族制度や異性愛主義といった問題はすっかり抹消され、温存されてしまう。囲い込みは運動を一時的に力付けて対立を可視化するけれど、繋がれていたはずの運動を分断し、自身の内部にいたはずの多様な人々の状況を切り捨てることもある。
いまトランス排除に突き進んでいるフェミニストたちはこういう「囲い込み」によってエネルギーを得ているように思う。 [参照]
編集業。하야카와 타다노리 。『神国日本のトンデモ決戦生活』(合同出版→ちくま文庫)『原発ユートピア日本』(合同出版)『「愛国」の技法』(青弓社)『憎悪の広告』(共著、合同出版)『「日本スゴイ」のディストピア』(青弓社→朝日新聞出版)あり。 真理が我らを自由にする&労働が我らを自由にする。