社会の党派的分断が最近起こったことであるかのように語られているの、珍しくもないありふれたものだが、目にするたびに驚く。
「現在のぼくは、政治や社会を語るこういった言葉が、単に消費されるだけで、分断されていくばかりの社会において、敵か味方かを判断する材料でしかなくなっていると感じています。」(寄稿)言葉を消費されて 作家・星野智幸 https://www.asahi.com/articles/DA3S16019473.html
このへんのナショナリズムについての認識から、「一人ひとりが自分の中にある依存性を見つめる必要がある」という方向性まで、なんともピンボケというか、なんつーか
「長年の経済的停滞等で疲弊したところに、東日本大震災と原発事故が起こって自分を支えられなくなった日本のマジョリティーの人たちは、絶対に傷つかないアイデンティティーとして「日本人」という自己意識にすがるようになった。個人であることを捨て、「日本人」という集合的アイデンティティーに溶け込めば、居場所ができるから。それは依存症の一形態であるが、誰もが一斉に依存しているから自覚はない。日本社会がそうしてカルト化していく傾向を変えるためには、強権的な政権への批判だけでは不十分で、一人ひとりが自分の中にある依存性を見つめる必要がある」
蛇足:70年代の論壇誌に散見される「セクト」批判はテキトー「日本人」論とか「集団主義な日本人」観とかも援用されながら展開されているものがあったが、そんな民族的特性に還元しなくても、ある種の「政治」に必然的につきまとう普遍性を持ったものではなかったか。
そもそもここでは、政策的に行われてきた官製ナショナリズムの鼓吹というモメントが消え、〈一人ひとり〉が持つ〈自分の中にある依存性〉に切り縮められている。これって、「日本スゴイ」コンテンツの流行を、受け手側がいだいた「不安」に理由を見出すありふれた言説と同じ匂いがする。
「長年の経済的停滞等で疲弊したところに、東日本大震災と原発事故が起こって自分を支えられなくなった日本のマジョリティーの人たちは、絶対に傷つかないアイデンティティーとして「日本人」という自己意識にすがるようになった」