たとえば「がんばってる障害者」がたくさん出てくる24時間テレビ的なものに感動してるうちは、戦争関連のコンテンツをいくら見たところでその悲惨さ・罪深さを理解することはないだろう。なぜなら、どちらも「かわいそうな(状況で必死にやってる)他者」としか認識していないので、自分とは遠いところで起きてる無関係の出来事だと思っているから。その状態でいくら知識を得たとしても、自分の感情を刺激してくれるコンテンツ=エンタメとしか思わない。
お前と同じ属性を持つ奴が悪いことをした!だからお前も危険だ!排除すべきだ!排除されたくないなら属性を明かせ!なんだ!明かせないのか!明かせないということはそういうことなんだな!なに!やはりお前はその属性を持っていたのか!危険だ!排除すべきだ!
これが差別の論理(のひとつ)であって、どの属性に対しても適用してはならないわけなんだけど、適用すべきではない属性と適用してもいい属性があると思っている「反差別」とはなんなのだろう。
いま中小取次がやっていることをトーハンという大手取次がやり始めることは、仕入れやすさの点で本屋としてはありがたいことだけども、出版業界の生態系的なことを考えると確実に「破壊」なので、ついにここまできたか......という感じ。記事内ではなんかいい感じのことを言ってますけど、実態は「中小取次の食いぶちを奪いにいかないとやばい」だと思います。
https://www.yomiuri.co.jp/culture/book/articles/20240806-OYT1T50173/
めいろま(にかぎらずインフルエンサー的な存在)の本は、一般的な書店の場合「売れ筋配本」みたいなもので勝手に入荷してくるのでほんとうによろしくない。即返品してもまたやってくる。「必ず1冊は在庫がある状態にしといてね、なくなったら勝手に補充するよ!」という仕組みになっているから。ゆえに、めいろま(などのインフルエンサー)の実態を知る書店員がいない本屋には、こういった本が大量に並ぶことになる(知っている者がいても諦めてしまうことはある)。めいろま、ひろゆき、堀江貴之、ダイゴ、内海聡、橋下徹、百田尚樹......etc。特に新書やビジネス書のジャンルは「売れ筋配本」で棚を維持している書店が多いので、こういうのがたくさん並んでいる。
「自らの人生を物語ることをある種の厄払いととらえることは可能かもしれない」という箇所について補足。ここはいわゆる神社神道における「厄」の概念(本厄とか)とそれを払うこととは別に、作家自らの(ある種の信仰として)「物語ることで厄を払う」というありかたも存在するし、それを否定することはできないが、そうだとしても憎悪に飲み込まれた物語りになってしまってはならない、ということ。
それにくわえて、厄払いという概念についての我々の認識は往々にして神社神道におけるそれの影響を受けているし、その概念や形式を借用して自らの物語りに活用するのであれば、それに適うだけの敬意を払う必要がある(それがなされなければ文化盗用や搾取であるといった批判を免れない)。
「人は自らの人生を物語ることによって救われる」というジャネット・ウィンターソンの言葉を私は信じている(し、それが岸本佐知子の解説によって書かれている『灯台守の話』が店名の由来のひとつになっている)のだけど、その試みが失敗すること、特に他者を巻き込んだうえで失敗することもあるから気をつけなくてはならないとも思っている。それはおそらく憎悪に飲み込まれたときに起きるもので、自らを救うためのものであったはずの物語が、いつしか無自覚に自らを苦しめている存在への復讐へと転化してしまっているのだろう。憎悪を動機にすること自体は否定できないが、それをコントロール=乗りこなしていくのは困難で、我々は容易くそれに「突き動かされて」しまう。
本屋lighthouseのナカノヒト。おぺんのおともだち。