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「人は自らの人生を物語ることによって救われる」というジャネット・ウィンターソンの言葉を私は信じている(し、それが岸本佐知子の解説によって書かれている『灯台守の話』が店名の由来のひとつになっている)のだけど、その試みが失敗すること、特に他者を巻き込んだうえで失敗することもあるから気をつけなくてはならないとも思っている。それはおそらく憎悪に飲み込まれたときに起きるもので、自らを救うためのものであったはずの物語が、いつしか無自覚に自らを苦しめている存在への復讐へと転化してしまっているのだろう。憎悪を動機にすること自体は否定できないが、それをコントロール=乗りこなしていくのは困難で、我々は容易くそれに「突き動かされて」しまう。

自らの人生を物語ることをある種の厄払いととらえることは可能かもしれないが、それが憎悪によって突き動かされてしまったとき、もはや(自らの)厄払いではなくなってしまう。物語るという行為は文字に書き記すにしろ声で音として語るにしろ、それは他者への呪い(のろい/まじない)となり得るものであり、その扱い方は気をつけなくてはならない、ということなのだろう。それ(物語ること≒のろい/まじない)は意図の有無にかかわらず作用する。

「自らの人生を物語ることをある種の厄払いととらえることは可能かもしれない」という箇所について補足。ここはいわゆる神社神道における「厄」の概念(本厄とか)とそれを払うこととは別に、作家自らの(ある種の信仰として)「物語ることで厄を払う」というありかたも存在するし、それを否定することはできないが、そうだとしても憎悪に飲み込まれた物語りになってしまってはならない、ということ。
それにくわえて、厄払いという概念についての我々の認識は往々にして神社神道におけるそれの影響を受けているし、その概念や形式を借用して自らの物語りに活用するのであれば、それに適うだけの敬意を払う必要がある(それがなされなければ文化盗用や搾取であるといった批判を免れない)。

たとえば虹色のモチーフを性的マイノリティの包摂といった意義を知らずに使うことはありえるし許されるべきことだが(極端な例を出せば子どものお絵描きとか)、レインボーフラッグの存在を知っていてかつその意義の「いいところ」を借用しつつおかしな使い方をしていたら(たとえば「思いやり」「みんななかよく」みたいな使われ方)、それに対して批判(「反差別は道徳ではない」)が生じるのは当然のこと。専門家や当事者の協力を得てそのモチーフを使ったのならなおさら、え?私の話聞いてました?となる。

宗教や信仰(にかぎらずさまざまなことにおいてだけど)について我々はあまりにもぼんやりとした認識しかしていないし、にもかかわらずそれらのモチーフを「いいとこどり」して自分流に使っていることが多いように思える。自分流に活用することを全否定はできないが、プロや専門家的な者から指摘を受けたなら、少なくとも拒絶するべきではない。これがスポーツとかなら納得するのに、宗教・信仰に関わるものになると反論したくなるのはなぜなのだろうか(「野球はバットで打つのであってラケットじゃないよ!」が納得できない、みたいなイメージ)。

バットではなくラケットで打っているのを「野球漫画」として主張することは全否定できないが、実際に野球をやってきた者から指摘を受けるのは当然である。野球のやり方が長い歴史の積み重ねで作られてきたのと同様に、宗教・信仰の場におけるありかたと手法も専門家や実践者の積み重ねによって作られてきたものなのに、表層だけ使われて頓珍漢なことやられていることへの「それは違う!」が五月蝿い指摘として認識されてしまいがちなのは、搾取や差別と言って然るべきだと思う。

だからこそ、厄払いというものを「自らの人生を物語ること」という自分流のやりかたで実践するのであれば、憎悪に飲み込まれたものになってはならないと思う。憎悪は差別を生じさせ得るのだから、憎悪の発露でしかないようなものを「物語ること=厄払い」として実践されてしまったら、ただでさえ「危ないもの」「差別の根本原因」などと誤認されている宗教・信仰の実践者からしたら、何重にも害でしかない。

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