「人は自らの人生を物語ることによって救われる」というジャネット・ウィンターソンの言葉を私は信じている(し、それが岸本佐知子の解説によって書かれている『灯台守の話』が店名の由来のひとつになっている)のだけど、その試みが失敗すること、特に他者を巻き込んだうえで失敗することもあるから気をつけなくてはならないとも思っている。それはおそらく憎悪に飲み込まれたときに起きるもので、自らを救うためのものであったはずの物語が、いつしか無自覚に自らを苦しめている存在への復讐へと転化してしまっているのだろう。憎悪を動機にすること自体は否定できないが、それをコントロール=乗りこなしていくのは困難で、我々は容易くそれに「突き動かされて」しまう。
「自らの人生を物語ることをある種の厄払いととらえることは可能かもしれない」という箇所について補足。ここはいわゆる神社神道における「厄」の概念(本厄とか)とそれを払うこととは別に、作家自らの(ある種の信仰として)「物語ることで厄を払う」というありかたも存在するし、それを否定することはできないが、そうだとしても憎悪に飲み込まれた物語りになってしまってはならない、ということ。
それにくわえて、厄払いという概念についての我々の認識は往々にして神社神道におけるそれの影響を受けているし、その概念や形式を借用して自らの物語りに活用するのであれば、それに適うだけの敬意を払う必要がある(それがなされなければ文化盗用や搾取であるといった批判を免れない)。
自らの人生を物語ることをある種の厄払いととらえることは可能かもしれないが、それが憎悪によって突き動かされてしまったとき、もはや(自らの)厄払いではなくなってしまう。物語るという行為は文字に書き記すにしろ声で音として語るにしろ、それは他者への呪い(のろい/まじない)となり得るものであり、その扱い方は気をつけなくてはならない、ということなのだろう。それ(物語ること≒のろい/まじない)は意図の有無にかかわらず作用する。