小池百合子の始球式骨折、実際の映像見たけどスポーツ経験者なら投げ途中&投球後の身体の動きでどこが怪我したことが明確にわかるし、なによりも「ふだんから投球をしていない」「72歳」を「平地ではない傾斜のあるマウンド」で「靴底に凹凸のない滑りやすい靴」を履かせて投げさせるのは危ないので、本人含め周囲の危機管理能力のなさを露呈していてキツイ。性質的にも目立ちたがりなんだから、張り切っても大丈夫な環境を整えてあげないと......。
https://www.mbs.jp/news/kansainews/20240805/GE00059399.shtml 荷台じゃなくてハンドルバーにつけるおもちゃだけど、ダイソーで100円(+税)で売ってるあひるちゃん、今ブームになってる。近所の男子高校生はクロスバイクのハンドルバーに3色並べてる。かわいい。
ビニール袋の取手にダサいシールを貼るのと同様に、むしろ窃盗されないようにするためのアヒルちゃんでもあると思うんだけど......(本人は単におもしろいからで付けてるだけだろうけど)。
高校生の親や学校の先生とかが「変なものつけてるからだ(ふつうじゃないことするな)」と責めてしまわないことを祈るばかり......。
https://www.mbs.jp/news/kansainews/20240805/GE00059399.shtml
差別加担の指摘を受け入れられない理由のひとつが「なぜ自分のSOSは無視されて、SOSの中にあった無自覚な差別の批判だけされるのか」というものなのかもしれず、そうなると必要なことは「あなたのSOSは受けとめた。それとは別軸であなたの無自覚な差別も改善していきましょう」という態度を鮮明にすることなのだけど、その切り分けをすることが難しい場合もある。特に、ある者が属性Aの差別に反対するなかで属性Bを無自覚に差別していて、それを属性Bにある者が切り分けをしつつ批判をする、という場合。
つまり当事者(どうし)による話し合いがうまくいかないことが多いのはこの切り分けが両者ともに難しいからで(なぜならどちらもSOSだから)、あいだに入って切り分け担当をする第三者が必要になる。しかしその切り分け担当はどっちの側にも寄り添うことになるため、ゆえに「そっちの味方につくのか」的な感情をぶつけられることも多く、結局三者共倒れとなることもある。でもその「味方につくのか」も不安=SOSであり、容易に切り捨てることもできない。
また、差別を指摘したときにそれを認められない相手のことを「知性がないから」「盲信(妄信)してるから」などの理由でもって片付けてしまうことが多いけども、差別行為の発露がときに「(どうにもできない自らの苦しみについての)SOS発信」が形を変えて表に出てきていることもある、ということも念頭に入れる必要がある。
これは、反差別目的の批判をしたときに「でもあなたの言説のなかには別の差別に加担するものがありますよ」という指摘を受けた際に、それを受け入れられない場合がある、といった例の説明にもなるような気がしている。つまり「なぜSOS発信が受けとめてもらえないのだ」という感覚が生じ、ゆえに批判を受け入れられない。それは知性がないからでも盲信(妄信)しているからでもない、ということも当人ならわかるはず。
反差別には常に自省が伴うものなので、差別をおこなう者を「無能/低脳/馬鹿/知性なし...etc.(だから差別をするのだ)」と断じ、無自覚であろうとも他者化(=反差別の指摘をする私はそうではない)をした時点で道を踏み外し始めている。つまり我々はみな例外なく「道を踏み外し始めている」のであり、踏み外しては戻り踏み外しては戻りを繰り返す必要があるとも言える。
この矛盾を引き受けながら実践し続けねばならない反差別は、その点において「どこにもない場所であるが、そこを目指し続けている間はどこかに存在する(が、たどり着いたと慢心した瞬間にディストピアへのルートがひらかれる)」ユートピアと類似する。
スポーツの世界はあくまでも(観客側にとっては)エンタメでしかないのだから、不公平さ含めて楽しむのがよい。ではスポーツに人生をかけてる選手は?と思うだろうが、当人たちだって文字通り「負けたら死ぬ」ということはなく、その後の人生はどうにかこうにか続いていくのだ(我々が大学受験に失敗してもそれで終わりではないのと同じように)。
仮に本当に「負けたら死ぬ」ような状況にあるのなら、それはスポーツとは別軸でどうにかすべき問題が生じているということなのだから、スポーツはいったん置いといて問題解決に向けて動くべき(メダル取らないと政府に殺されるとか兵役免除されないとかは明らかに政治の問題)。
だからこそスポーツの世界に染まりきると「システムの不公平さを緩和しよう」という動き、つまり反差別的なありかたにピンと来ないマッチョな生き方をしてしまう傾向もあるのだけど、とはいえスポーツでも不公平さの緩和は可能な限りしていて、その塩梅の積み重ねが「ルール」として表出している。だから長い歴史のあるスポーツはルールが細かくあったり、なんでそんな微妙な数字?みたいなのもある(野球のマウンド-ホームベース間は18.44m=60フィート6インチとか)。
それでも不公平さは取り除けないし、だからこそたのしいとも言える。強風が名物の千葉マリンスタジアムでは不慣れなビジターチームはフライを落としやすいが、ホームチームですら落とすこともある。ホームランのはずが平凡な外野フライになることもある。風が吹くタイミングなんて制御できなきのだから、こんなことに文句を言っても仕方がなく、呆れて笑うのが健全な楽しみ方である。
女子日本代表でストライカーやってた人と小学校が同じだったから一緒にサッカーやってましたけど、2学年上かつその頃にはすでに身体ができあがってるようなその人相手に、常に背の順では先頭で腰に手を当てるポーズをしていた私は叶うはずもなく、くやちいくやちいとやっておりましたが、だからといってその人を排除したいとは思わなかったよね。なにも言わなければ男と認識されてもおかしくない体つきだったからたぶんテストステロン値とかは高めだったと思うし、そんな「女性」はどこにでもいる。そしてそんな「女性」相手に「身体能力の差」で負ける「男性」もたくさんいる。そういう「不公平さ」を含んだうえでやるのがスポーツ。
スポーツやってると「生まれ持ったものの差」に対する腹立ちやら嫉妬やらは日常茶飯事なんだけど(「あんな大きい奴に勝てるかよ」「あれだけ足が速ければな......」とか)、そこに「差別したい者」が乗っかってこれちゃうのがスポーツ界におけるトランス“問題"なんですよね。選手当人らはふだんやってる「背の高さ」「足の速さ」とかへの愚痴くらいの感覚で言及していても、差別したい者らはそれを利用できてしまう。
そして選手たち(少なくともトップレベルでやってる者ら)は、そんな「生まれ持ったものの差」による「不公平さ」なんてものは織り込み済みで、だからこそ日々練習をしてそれを乗り越えようとしている(がゆえに愚痴も言いたくなる)。つまり余計なお世話だから黙っているのが吉。ナンオブユアビジネス。
佐藤創 鳥羽・なかまちに住んで
三重県は鳥羽、なかまちに、地域おこし協力隊としてやってきた佐藤さん。地域の人とのほど良い距離感や関係、この町に住み、事業をやってゆくことについて。ちょっとだけ自由な無法帯での生き方の具体例。
大東悠二 わかち合う時を求めて、わたしたちの共有地をつくる
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二度のパリ旅行、シェイクスピア&カンパニー書店との出会い、ちがいのある人が共に過ごせる「共有地」、だれもに開かれた「場」づくりの軌跡。
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小説を書く/読む場を開くとき、書籍は読者が集う場所になる。SF小説を通して、そして、一緒に暮らしているぬいぐるみや猫たちとのかかわりを通して、「他者」のいる場を考えてゆく。
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海と山に囲まれた小さな町、水俣。全国どこにでもありそうなこの町はかつて水俣病が起きた場所。そして、天然の魚みたいなひとがたくさんいる。この町で起きたことを、語り、伝えようとしてゆくことを、町の外からやってきて、町に暮らすまなざしで語る。
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本屋lighthouseのナカノヒト。おぺんのおともだち。