「人は自らの人生を物語ることによって救われる」というジャネット・ウィンターソンの言葉を私は信じている(し、それが岸本佐知子の解説によって書かれている『灯台守の話』が店名の由来のひとつになっている)のだけど、その試みが失敗すること、特に他者を巻き込んだうえで失敗することもあるから気をつけなくてはならないとも思っている。それはおそらく憎悪に飲み込まれたときに起きるもので、自らを救うためのものであったはずの物語が、いつしか無自覚に自らを苦しめている存在への復讐へと転化してしまっているのだろう。憎悪を動機にすること自体は否定できないが、それをコントロール=乗りこなしていくのは困難で、我々は容易くそれに「突き動かされて」しまう。
たとえば虹色のモチーフを性的マイノリティの包摂といった意義を知らずに使うことはありえるし許されるべきことだが(極端な例を出せば子どものお絵描きとか)、レインボーフラッグの存在を知っていてかつその意義の「いいところ」を借用しつつおかしな使い方をしていたら(たとえば「思いやり」「みんななかよく」みたいな使われ方)、それに対して批判(「反差別は道徳ではない」)が生じるのは当然のこと。専門家や当事者の協力を得てそのモチーフを使ったのならなおさら、え?私の話聞いてました?となる。
宗教や信仰(にかぎらずさまざまなことにおいてだけど)について我々はあまりにもぼんやりとした認識しかしていないし、にもかかわらずそれらのモチーフを「いいとこどり」して自分流に使っていることが多いように思える。自分流に活用することを全否定はできないが、プロや専門家的な者から指摘を受けたなら、少なくとも拒絶するべきではない。これがスポーツとかなら納得するのに、宗教・信仰に関わるものになると反論したくなるのはなぜなのだろうか(「野球はバットで打つのであってラケットじゃないよ!」が納得できない、みたいなイメージ)。