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gom_nori2 さんがブースト

 おやおや、今日も新聞はAIと脳科学に関する「怪しい」特集を二つも組んでいる。

 一つは、今はやりの「万能AI」。2045年に「シンギュラリティー」が訪れる、として「人類脅かす可能性も」とリード文。

 「シンギュラリティー」噺、ここまで来ると「ノストラダムスの大予言」に似てきたなー。
 45年になったら、別の御伽噺が紡がれるのだろう。

 しかし「人類の存続」が地球生態系を含めて、今、現に危機に晒されているのは事実である。
 ただ、その原因はAIの進化などではなく、抽象的には「人類の愚かさ」、具体的には「無限の成長」を前提とした近代世界システムの限界である。
 近代世界システムとは資本主義世界経済とインターステイトシステムの複合メカニズムであり、それは現在、世界中での不平等の拡大、排外主義そして戦争、として現れている。日本の状況もこの文脈において捉える必要がある。

 別のページでは「脳科学」で「認知症」、「うつ」、「パーキンソン」を克服として小型ザルを使った計画に来年3億の予算を計上とぶち上げている。
 これは人為的にはサルをパーキンソンやうつ、認知症にさせる「倫理性」の問題があるだけでなく、前提が「デジタル脳」の開発と言っている時点で、「AIによる不老不死」噺と変わらない。やれやれ。
 

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 しかし、「うつ」を脳科学によって克服、と銘打っているが、現在のSSRIやSNRIにしてもセロトニンやノルアドレナリンそのものを増やせる訳ではない。「脳」への「再取り込み」をブロック(遅らせる)ことで、血中濃度を上げるだけである。

 であるから、「うつDepression」の器質的原因=原理的にセロトニンやノルアドレナリンを減少させるを除去できるわけではない。

 つまり「うつ」になる環境におかれていれば、いくらSSRIやSNRIを服用し続けても、根本治療にはならない。

 勿論、重度の「鬱」には薬物療法が効果的なのは事実。実際、戦争中などはパイロットや若い特高兵士に覚醒剤を与えて出撃させていた。

 戦時に蓄えられていた覚醒剤が戦後市場に横流しされたのが「ヒロポン」。坂口安吾など戦後派の作家が服用していたのでも有名である。

 「疲労」が「ポン」ととれるので、「ヒロポン」と命名された。由来と知った時は少し拍子抜けしたけれども。

 サルトルなども『弁証法的理性批判』に取り組む際、覚醒剤を嚙み砕きながら、あの膨大な書物を書き続けたと言う。
 しかし、後期の主著としてはやはり『家の馬鹿息子』が決定的に重要。おそらく、近いうちにこの書物をベースにして19世紀言説史は書き換えられるだろう。

 

 

「多くの人はAIがこの危機の救世主だと思い、益々機械を手放せなくなっている。この危機を救済してくれるのはAIではなく、芸術である。これが本書の結論である。」(水野和夫『次なる100年』東洋経済新報社2022年)

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 「どわんご」に続いて、笹川財団から、内容証明つきの「脅迫状」の脅しが届いてから、2週間ほど過ぎた。

 しかし私への法的恫喝は別にして、2025年4月Z大学開学に間に合わせるためには、いくら去年法改正はしてあるとは言え、今年10月、つまりあと1月余りで申請することが必要になる。

 ところで、現在新学部を申請するだけでも膨大な書類が必要になる。一度それを見せてもらったことがあるが、広辞苑4冊分ぐらいの厚さだったように記憶している。

 その際の責任者の人に拠れば、専属の事務職員が4人は必要、とのこと(学部の場合)。

 ZEN大学の場合、まだ存在していないわけだから、専属の職員も教員もいない。誰がそれを担当するのか、と不思議がっていた。

 確かに東浩紀などが、そのような膨大な書類仕事がやれる筈もない(私も無理だが)。たぶん、私への「脅迫状」の送り主、「笹川財団ドワンゴ学園準備委員会」が書類づくりを行うのだろう。

 ところで、どうやら「どわんご」さん、私以外の方にも「法的恫喝」を加えているらしい。

 さても不思議。自分たちが発表した計画に対して「論評」が出るのは当然である。

 気に食わない「論評」を書いた人に「恫喝」を加えて回るとは?
 これ、大学を創設しようとする団体がやることか?

  

gom_nori2 さんがブースト

 ポストモダニズム@Japanを凝縮し、東電・自民党擁護から一気に「反憲法学」宣言、言論封殺のファシストになり果てた東浩紀、やはり一度にポンと出てきたわけでもない。

 基本的には浅田・柄谷編集の『批評空間』から生み出された。また東をロール・モデルとして駒場表象周辺の自称「神々」たちのバイブルも『批評空間』だった。

 柄谷さんはどうも途中から東に批判的になったらしく、パリで会った時、「どうしてあんな適当な本(『存在論的・郵便的』を出したのか?」と聞いた時には、「いや、あれは浅田が書いたの!」と答えた。私は「それだと余計問題ですね」。

 この時私は浅田のレベルがこの程度なのか、と批判したつもりだったが、リライトの程度によっては、どちらが著者なのか、という問題も発生し得るのだろう。ただし、著者が年配の知り合い・友人に初稿を見てもらい、リライトするのは当然で、私はあくまであの本の著者は東浩紀だと思っている。

 問題は、浅田がそこまでしてプロデュースした東が「ネトウヨ」モンスターからファシストへと成長を遂げたこと。

 やはり浅田彰にはここらでコメントが必要だろう。

 柄谷さんはちょうど「朝日」で自伝的回顧をしているらしいので、そこで。ただ「ポストモダン批判をはじめたのは俺」はやめてほしいな。

 

gom_nori2 さんがブースト

 しかし、30年以上前、駒場の図書館前で、東浩紀と話していた際、所謂「フランス現代思想」を政治理論に繋ぐ際、アレント(とベンヤミン)はちょうどよい「媒介」になる、と教えてあげた際は、「なるほど!」と感心していたが、結局これもルソー噺と同じく、よく読みもせず、なにやらアレントについて「好き勝手」なことを新著で書いているらしい。

 アレントの方は、ルソーと違って東浩紀の方は「覚えていない」かもしれないが、いずれにせよ、デリダやドゥルーズを「政治」に繋ぐのは東浩紀には無理。
 フーコーについては東はほとんど「読んでいない」ように見えたけれども。

 ただ、補足しておくと、私は東浩紀と「友人」だったことはない。大学院で高橋哲哉さんのデリダ購読のゼミで同席した折に、共通の知人に誘われて数回お付き合いしただけ。

あの頃は、東京の無教養な「オタク」だとは思ったが、現在のような邪悪な「ファシスト」になり果てるとは予想しなかった。

というよりも「邪悪さ」の片鱗は感じたけれども、世間がこんな幼稚な男を相手にするとは「予期しかった」が正確。

であるから、東浩紀が「問題外の外」であることは端からわかっていたことであって、むしろ問題は彼をプロデュースし、ここまで増長させた文化産業の構造の方にある、というべきだろう。

「狩猟採集民の時間が強烈に現在中心的・カイロス的(人間的)であるとするれば、農耕民とともに過去から未来へと時間は流れはじめ、クロノス的(物理的)時間が成立した。農耕社会は計量し測定し配分し貯蔵する。とくに貯蔵、このフロイト流に言えば「肛門的」な行為が農耕社会の成立に不可欠なことはいうまでもないが、貯蔵品は過去から未来へと流れるタイプの時間の具体化物である。その維持をはじめ、農耕の諸局面は恒久的な権力装置を前提とする。おそらく神をも必要とするだろう。」(中井久夫『分裂病と人類』UP選書2013年新版、p.20)

近代工業化社会は、このような合理化の流れの最終到達点なのだろう。

gom_nori2 さんがブースト

 東浩紀の「ゲンロン」と「恫喝」のスタイル

 さて、恫喝の口実は「かわんご」氏への「名誉棄損」としているが、削除を要求する投稿は二つとも、ZEN大学設立にあたり、「不都合な」な点を指摘したもの。

 法技術的にどうなのかは法曹実務経験がない私にはわからないものの、「常識」では、Z組織のコア関係者は、この「恫喝」行為を知った上でのこと、と考えるのが妥当だろう。

 とくに動画会見に合わせて、この案件に「機密事項」として関与していたことを発信し、また株式会社「ゲンロン」を動員して、教務部長となる予定の東浩紀は、まず「知っていた」と考えられる。

 さて、ここに東浩紀氏にお伺いしたいのだが、貴方の考える「ゲンロン」とは「都合の悪い」発言に対して「スラップ訴訟」の恫喝をかけて「黙らせる」スタイルなのか?

 大学とは、双方かなり批判的なやりとりを行うが、「法的」恫喝を加える場ではない。

 しかし「ゲンロン」がジャーナリズムだとしても、法的恫喝は、「言論の死」を意味するのではないのか?

 そこのところをとくと考えて、得意のSNSで発信する責務があるとはお考えになりませんか?

 この点は、「スラップ訴訟」恫喝を行う組織を「大学」として「認可申請」を「受け付ける」立場の文科省にもとくと考えてもらいたい。

「・・・生きることの意味。これらの問いは、答えではなくて、問うことそれじたいのうちに問いの意味のほとんどがある。これらの問いとは一生、ああでもないこうでもないと格闘するしかない。」(鷲田清一『わかりやすいはわかりにくい?』ちくま新書2010年,p.18)

「「脱構築」もまた、メタレヴェルの視点を要請する。そして主体がその語る位置をメタレヴェルに繰り上げるとき、下位のレヴェルはそっくり一網打尽にされてしまう。メタレヴェルに語るということの欲望は、所有の欲望にほかならない。」(斎藤環『文脈病』,p.394)

下位のレヴェルをそっくり「一網打尽」にしてしまうということ
本来一体であったものが視点という特権的な立ち位置、働きかけの主体という能動性を獲得してしまい、自分の中で生起する世界にただ驚きをもって眺めるといった完全な受動性の内に留まることは出来ないということであろう。

どうして主体という視点を獲得するだけで客体に対する優位を主張できるのか、正にその態度が傲慢であり、思い上がりなのである。

「存在(<存在>という視点の設定という出来事)を畏敬し、それに随順し、それと調和し、いわばそこに包まれて生きることと、その<存在>をことさらに<それはなんであるか>と問うこととは、まったく違う‥。

「そのように問うとき、すでにあの始原の調和は破れ、問う者はもはや原始の出来事のうちに包み込まれていることはできない。こうして<叡知>との<調和>がそれへの<欲求>、それへの<愛>に変わり、<叡知を愛すること>が<愛知=哲学>に変わってしまう。‥ハイデガーは、このプラトンとアリストテレスによる<哲学>の樹立を「偉大なはじまりの終焉」と見る。」(木田元『わたしの哲学入門』,p.191)

それを対象化して見るとき、それに対する構え、或いは特別な定点を占めることが出来る、視点としての能動性を有する主体が生まれてしまうからである。この主体こそ自然を操作し支配する者、ランボーが否定する近代の宿痾としての主観にほかならない。

「「仮構fabulation」・・・の概念は、・・・・アンリ・ベルクソンにあっては、人間が社会的紐帯の解体 [ゴロンとした世界] に抗って宗教的な絆を構想する幻視能力 [まさに神学] であり・・・ドゥルーズが仮構と呼ぶものは、・・・思考や観念や感覚の不可逆の解体のなかで、それらをいびつなままに繋ぎとめ、それらにまがいものの絆を与えることで、かろうじて崩壊に抗う「行為acte」である。ドゥルーズはこれを「カオスに抗する闘い」と呼ぶだろう。」(小倉拓也「老いにおける仮構ードゥルーズと老いの哲学」『atプラス30号』,pp.68-69)

日本社会の「規範」「倫理」「常識」は、経済成長することが前提で成立していた。30年前に成長が終わり、未来への投資が必ず利益を生むという前提は崩壊した。勝ち組・負け組の椅子取りゲーム化、非正規・下請けへのコスト転嫁、大企業の不正会計・不正検査、政府統計の捏造・・・・根っこはみな同じ。

国内の生産人口の増加がなくなり、農村からの廉価労働力の供給もなくなれば、国際競争力もなくなっていくのは経済の常識。今だに「失われた〇十年」などと「凋落」の被害妄想から抜け出せない。結局は小泉構造改革や維新の「改革妄想」、野口の「イノベーション妄想」に嵌まってしまうのが日本の不幸。

ここ200年たらずの間に日本の人口は江戸時代後期の3千万人から1億2千万人へと4倍に急膨張した。近代国家にして移民・棄民国家でもあった戦前日本の実態。戦後は工業化による過剰生産を外需依存の経済構造に乗せて高度成長を達成してきたが、30年以上前にその好循環も限界を迎えていたということ。

「資本と賃労働とはすでに、それぞれ対象的富および主体的活動性の、未来に向けて手段化された現在そのものの極限的 な形に他ならない。」(真木悠介『時間の比較社会学』岩波現代文庫2003年、p.250)

貨幣の本質は債務履行の先延ばし(約束)。現在の余剰があるから貸出・借入(信用)はできるが、将来返済する余剰が生まれるとは限らない。約束は守られることもあれば破られることもある。返済を約束するはずの経済成長(余剰)は、自明の現象では当然ない。

「情報化し、消費化された市場システムの解き放たれた成長の無限空間は、その外部収奪的な(自然収奪的、他社会収奪的な)形式をどこかで転回しない限りは、環境、資源、「世界の半分」の餓えと貧困という「限界問題」を、構造として解決しえないだけでなく、これを生成し続けるその当の装置として作動している・・・・。」(見田宗介『現代社会の論理』岩波新書2018年改定)

3千万人超の日本が何とか国民国家として包摂され得たのは、国語の創設という困難な事業の結果だった。現代日本において、まるで国語が崩壊したかのように論義が成立しない分断状況が露呈しているのは、国民国家が解体プロセスに入っていることの現れだ。伝達の道具としての言語自体に包摂の力はない。

近代国家大日本帝国が海外拡張し破綻していく過程での「日蓮主義」が果たす特別な役割は結構強調されるところではあるが、この時代様々な宗教的なもの、オカルト的と言っていいものが暗躍している。これは日本に限ったことではなく西洋世界でも理性的なものに対する信頼が失われ、シュタイナーの人智学のように神秘性を帯びたもの、カルトと言って良さそうなものへの傾斜が思潮として生まれている。ナチズムのオカルト的自然観はよく言及されるところだろうし、洋の東西を問わず神秘主義への接近はグローバルな普遍性を持っていると言えそうだ。
「同時代の日本では、宮沢賢治の思想にシュタイナーとの共通性がみられる。生前は無名であった賢治の作品は、日本がファシズムへと傾斜する時代に広く読まれるようになった。」(安冨歩『複雑さを生きる』岩波2006年、p.173)
日蓮宗と言うよりも神秘主義という視点のほうが案外自然なのかもしれない。

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