「そもそも嘆きとは何か。まず嘆くとは、湧き上がる悲しみを全身で受け止めようと試みることだろう。嘆く者の震えは、みずからの肉体を言葉にならないものの媒体に変えようとする・・・」(柿木伸之 「嘆きからのうた ―― 声と沈黙の閾で ――」) http://repository.seinan-gu.ac.jp/handle/123456789/2381
ベンヤミンが言う「伝達する言語」ではない言葉のもっとも起源的な使い方とは、言葉が行き詰まるところで、「沈黙は、一種の真空状態を作りだして、人間の、悲しみと区別のつかぬ「気がかり」を引き寄せずにはいない」(川村二郎『アレゴリーの織物』講談社文芸文庫2012年、p.350)というような、臨場する他者の「こころ」を誘い出す働きのことなのだろう。
「(進化心理学において)コストが、進化の歴史の中で非対称的であった場合、コストのかからない誤りをする方に判断が偏る傾向が進化する(略)不確実性が大きければ大きいほど、この偏りが大きくなる」(東京大学「なぜ現代人には虫嫌いが多いのか?」)
面白いのがこの偏りの傾向が遺伝する性質のものかどうかということだよね。遺伝するものだとすればその結果論=進化論も成り立ちそうだが、そうでないとすれば文化論的な説明が必要になってくる。フロイトの原父殺しは、家族関係の中で個体発生が系統発生を反復するように行われるということだ。
何の話かと言えば、家族という群単位の中で養育者に対する絶対依存と自立という関係の構造が、ある程度普遍的だろうということだ。それがエディプス・コンプレックス、去勢ということ。その意味でフロイトの心理学は、古代ではなく幼少期に遡る考古学だと言える。
自分の痛み感じるのは前帯状皮質ACCだが、他者の傷みを感じ取れるのは大脳皮質だそうだ。つまり信号が遮断されて大脳皮質の想像力が働かねば他者の傷みを感じないということだ。彼らには信号を遮断させてしまう何らかのトラウマがあるということなのだろう。‥‥なんとなく分かる気がする。
これは、例えば母親が赤ん坊の泣き声という表出を、知覚し大脳皮質で他者の<こころ>の「?」として想像し、帯状皮質感じる自分の<こころ>の「?」の感覚と摺り合わせながら、同じ<こころ>の「?」だと同定していく、共感というプロセスだと言っていいだろう。
言葉を発することの出来ない赤ん坊の<こころ>は、母親が想像して埋めるしかない。他者の<こころ>というものは、基本的に想像として構成されたものなのだろう。認知症が進んできて、言葉によるコミュニケーションに齟齬が出てきた自分の老母を見ていて、本当にそう思う。
【こころ】
「‥オドラデクは、人間とかかわりのない「小さなものの中での幸福」に包まれて、死ぬこともできずにひっそりと生き続けるだけである。その幸福にはもちろん言葉がない。しかしその沈黙は、一種の真空状態を作りだして、人間の、悲しみと区別のつかぬ「気がかり」を引き寄せずにはいない。」(川村二郎『アレゴリーの織物』講談社文芸文庫2012年)
死ぬ間際のただの年金じじいだよ(Asyl)