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オンライン個人授業が終わったので、やっとネイルサロンに行ってきます。爪が伸びすぎてコンピューターのキーボードがきちんと叩けない。わたしより長い爪の人をよく見かけるけど、どうやって普通の生活が送れるんだろうか…家事とかトイレとか。

なぜかあまりよく寝られなかったので寝不足気味。まだ時差ボケなのかなあ。
バンコクに戻ったのでこれからまた受験生のオンライン個人レッスン。スイスにいる間はしばらくやっていなかったけど、あと1ヶ月で会話試験、2ヶ月で筆記試験なので、ストレス満載で眉間にシワよせているだろうな。

固定された投稿があまりに多いと、どんなにスクロールし続けても新しい投稿が現れず、めんどくさくて諦めてしまうことがある。ごめんね。

日本ではこの懐かしいCMが有名だったよね。これでアラン・ドロンに落ちた女性が多かったらしい。最後にフランス語で言うセリフがカッコいい(わたしだって小さすぎて当時フランス語なんか話せなかった)。
youtube.com/watch?v=5bWVwUp5JN

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アラン・ドロンが亡くなった。88歳。

彼が23歳のときの「太陽がいっぱい」を初めてテレビで観て、なんて恐ろしいほど美しい男性なのだろうと目が離せなかったのを覚えている。
lemonde.fr/culture/article/202

ランチは近くのタイ料理店からのデリバリー。豚肉のラープとガイ・ヤーン(チキンロースト)にハーブと口直し。食べきれないほどまだある(写真だけで半分だもん)ので、夜もコレになりそう。

がび🐾 さんがブースト

報道ステーションを見てたら風船爆弾の特集をやっていた。
当時風船爆弾がオレゴンに到達し、森にピクニックに来ていた子供連れのグループが落ちていた風船爆弾に触れてしまい爆発により妊婦の女性と子供達合わせて6人が死亡した、という事実は知らなかった。
石碑が映されていたけど、妊婦の女性は26歳、あと5人は11歳から14歳の子供達。

風船爆弾の製造に関わった現在96歳の高橋光子さん。
インタビューに答え、戦後この事実を知って、自分でも知らないうちに自分がやったことが人の生死に関わることになっているんだと思い辛い思いをしたと語った。
戦後作家になり著書「ぼくは風船爆弾」の中にも記述がある。

「一度戦争が起これば、自分がどんなにいやで、気をつけていても、いつ被害者になるかわからないし、加害者になるかもしれないのです。ぼくがそのいい例です」

インタビューではこうも語っている。

「戦争だけじゃなくていろいろな差別もある時に、常に自分も加害者になっているんじゃないかということは考えておかないといけない」

がび🐾 さんがブースト

関東大震災後の虐殺から逃れるため、日本人になりすました朝鮮人留学生。第2次大戦前、ナチドイツにダンサーとなって渡り、ナチ側について対日本スパイに。

前にも一度書いたけど、関東大震災後の虐殺の影響はこんなところにまで。

SNL(サタディ・ナイト・ライブ)に出演していたFred Armisen氏が、ルーツを探る米国の番組(NHKのファミリーヒストリーみたいなもの)で、祖父の真のルーツを知る話、自分は1/4日本人ではなく、1/4朝鮮人だと判明して驚く。
youtube.com/watch?v=ye7z3ErM4D

半ギプスがとれたのが嬉しくって、病院の近くのらあめん亭プレミアムで祝杯ならぬ祝ラーメン。いつものチャーシュー麺だ。久しぶりのラーメンはやっぱり東京風のさっぱり醤油ラーメンだね。ここのチャーシューが紙みたいに薄くなくて分厚いのも好き。

ということでレントゲンと外科医の診察終了。第5中足骨基部骨折は一応完治。亀裂はまだうすーく残っているらしいが、歩くには問題なし。バンザイ。

ただし5週間も満足に歩いていないのでリハビリ必要。特に筋肉と足首が弱くなったかもしれないので、歩いていてガックリと行く可能性あり。裸足ダメ、ハイヒールダメ、底の厚くて固い靴(つまりスニーカーですな)で3−4週間過ごしてから、オーストラリアのクリニックでもう一度レントゲンと診察。

とりあえずは半ギプスが取れたのが嬉しい。包帯を巻いていたところのアセモがひどい。
今はこんなふうにサポーターのみ。

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病院。外科で待合室がものすごく混んでいる。…と思ったら、若い男性患者が診察室から出てきて待合室の6人が立ち上がった。大人4人子ども2人。なんとまあ付き添いの多いことよ。

「積ん読」ってKindleでもやっちゃうんだよねえ…

そう言えばnoteにこんなことも書いていました。
話に出てくる実家もその隣にあった木造平屋もすでに売却し、3階建ての新しいアパートになっています。

note.com/gabyshideaway/n/naa40

終戦記念日だ。

亡き母からは時々戦争中の話を聞かされた。母は当時まだ10代になったばかりだったから、空襲で逃げ惑う話が多かった。そして戦闘機の音が大嫌いだった。トラウマだったのだろう。

亡き父は学徒出陣で終戦前にはシベリアの捕虜収容所で過ごした。背中に大きな凍傷の痕があった。でも収容所での話は聞いても教えてはくれなかった。亡くなったときにその当時収容所に一緒にいた上司が自分で綴った思い出のコピーをくれて初めて詳細を知った。

戦争は父母のような市井のひとびとに大きな傷跡を残したが、皆高齢者となって話を聞く機会も少なくなりつつある。

戦争を全く知らないわたしたち戦後生まれがこの先どう日本という国を未来の世代に残していけるのか、8月15日になるといつも思う。

バンコク着。空港では車椅子ヘルプを頼んでおいたので便利だった。色々とあったけどね。それについてはまた後ほど。
ただ今バンコク時間午前8時45分、ただし11時間のフライトのあとではアタマがまだスイス時間午前3時45分。何もできないくらいぼうっとしているので、少し寝ないとね。

ずっと車椅子か松葉杖で行けないところも多かったスイス滞在だけれど、それでも楽しいことがたくさんあっていい思い出になった。

また来年も来ようと計画し始めた。

スイス最後の晩のディナーは農家を改造したSchöfflisdorfのレストランAlthausで。人口1300人ほどの小さな村で、そこに住む友だちが行くと必ず声をかけられる。

ここの名物はコルドンブルー。豚か仔牛か鶏を平たく伸ばしてハムとチーズを挟み、衣をつけて焼く料理だ。男性たちはフライドポテト付きだが、わたしはミックスサラダ。

でも…デカい。コルドンブルーからはラクレットチーズがとろり。そしてサラダの量もすごい。

結局半分しか食べられず、あとの半分は男性たちに半分ずつ食べてもらった。

夏時間で9時過ぎまで明るいので、外の景色を楽しみながら。

がび🐾 さんがブースト

チョコレート博物館のあと、Zürcher Kantonalbankというスイス銀行に行った。新しい口座とクレジットカードを作るためだ。

チューリッヒ繁華街・オフィス街のど真ん中なので、駐車場は…と心配したら「下のレセプションに言っておくから駐車場入口のインターフォンで」と。
停止バーはすぐに開いたけれど、地下に行ったら分厚い鉄の扉が自動で開いた。うわ。
そこにはすでに案内のスタッフが待っていて、上の小さなミーティングルームがならぶ階に誘導。部屋に入ったら、「珈琲か紅茶はいかがですか」と。うわ。何億もの大口取引のために来ているんじゃないのに。

あらかじめ予約しておいたスタッフが入ってきて、さっそく説明と書類の書き込み。そのあと今度は在外スイス人には詳しい経歴と現在の資産の内訳を訊かれる。黒いお金取引の防止だね。

日本とはずいぶん違う。日本は住んでいなければ口座は作れないからね。感心した。

Greifensee(グライフェン湖)を見ながら帰ってきたので、ついでに湖のほとりのレストランで軽いディナーのシーザーサラダを。

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