【トム・クルーズがダビデ王に重なる】

『トップガン マーヴェリック』を見た。前作『トップガン』から36年振りの続編だ。
「何十年越しの続編」にありがちな「若手俳優たちが高齢主人公を礼賛する」雰囲気になっているのでは? と危惧したけれど、トム・クルーズ演じるマーヴェリックが控えめに若手を教え導く教官になっていて安心した。
本作は「狭い渓谷をマッハで縫うように飛ぶ」「小さなターゲットを狙い撃つ」「ダメなパイロットが途中で奮起する」「簡単に仲間を見捨てる奴が助けに来る」というわけで『スターウォーズ エピソード4』と同じ構図になっている。そこに前作で事故死したグースの遺児、ルースターとマーヴェリックの葛藤が絡む。終盤は非常に胸熱だった。
マーヴェリックとルースターの関係を見ていて思い出したのが、旧約聖書のダビデ王とメフィボシェトの関係だ。メフィボシェトはヨナタンの息子であり、ヨナタンとダビデは大の親友だった。ダビデはヨナタンの死後、その家族に報いるためにメフィボシェトを見つけ出し、エルサレムで庇護する(第二サムエル記9章)。
劇中、マーヴェリックが密かにルースターの成長を見守っていたことが分かる。トム・クルーズが晩年のダビデ王を演じたら面白いかもね、と思った。

【「聖霊に満たされていれば神学など学ばなくていい」の問題点】

・神学軽視による恣意的解釈の乱発
→いくらでも好き勝手に解釈できる

・対人援助技術の軽視
→人を無遠慮に傷つけるリスクが高い

・「聖霊に満たされる」の曖昧な判定基準
→主観を根拠なく絶対視/一般化する

「聖霊に満たされた」と言えば、教会ではわりと何を言ってもやっても許されてしまう。それで誰かが傷ついても、「あくまで聖霊に満たされてやったこと」なのだから、「完全に正しい(=神は間違いを犯さない)」はずで、だから受け取る側(傷ついた側)の問題だ、という話になってしまう。つまり立場の強い人間のやりたい放題になり得る。

だから「聖霊に満たされた」という言説は、キリスト教会の現場ではハラッサー製造機になっている。「聖霊に満たされた」と言い張る人間は基本的に信用してはいけない。

「神学校に行けば牧師になれる」というのも短絡的で問題があると思うけれど、じゃあ何も学ばなくても「聖霊に満たされて」いればいいか?というと、それはそれで問題がある。どのような形であれ人にかかわる仕事なのだから、何をどれだけ学んだのか、どんな人柄なのか、どんなハラスメント予防策を講じているのか、等が大切になるはず。なのに「聖霊に満たされた」で抽象的にまとめすぎている。

【定義付けることの暴力性】

昨今の宗教カルト被害について、「カルトの定義はこれだ」とか「カルトでなく破壊的カルトと呼ぶべきだ」とかの【定義付け】をしたがる人がいる。けれどカルトの定義付けは、「本当のカルト被害とはこういうものだ」という被害者の定義付け/固定化/選別化をももたらす。結果、多くの宗教被害者を取りこぼし、救済から遠ざけてしまうことがある。宗教被害はもっと多様だし、カルトかどうかで括れないものがある。

宗教被害者にとって、そこがカルトだったかどうかはあまり重要ではない。もちろん「カルトだった」と認識することで自身の被害を受け止めるプロセスに至ることはある。けれど厳密にカルトと言えない、でも明らかに宗教を通して受けた被害は存在する。カルトの定義付けは、そういった境界線周辺の被害をバッサリ切り捨ててしまう。宗教はカルト化だけが問題なのではない。

自分がブログで教会での体験を書き始めた頃、「それはカルトとは言えない」とか「破壊的カルトの定義はですねぇ、」とかのコメントが飛んできたことがあるけれど、だから何ですか? としか思わなかった。自分の被害は事実だし、それが厳密にカルトに由来するものだっかたどうかなんてどうでもいい。目の前にある被害を一顧だにしない【定義付け】なんて滅びてしまえ。

【キリスト教会で使われる「賜物」という言葉について】

「それぞれの賜物を用いて神様に(教会に)仕えていきましょう」という直球の能力主義が、わりとキリスト教会に蔓延している。何ができるか、どこまでできるか、で測られる信仰生活。できない/したくない人がいられない空間。だから「賜物」という言葉が自分はすごく嫌い。

これは「人は努力すればまともに生きられる、そうできないのは努力していないからだ」という【通俗道徳】に似ている。「信仰があれば教会(に関連した活動)に貢献できるはずだ、そうできないのは信仰が足りないからだ」みたいな。けれど何もできない/何もしたくない人も気兼ねなくいられるのが本来のキリスト教会なのでは。

しかし「賜物」という言葉のせいで、「全ての人にその人ならではの能力/得意分野/力がある」という能力主義が肯定されてしまう。結果、ある人々を教会から排除することになる。不信仰という汚名を着せて。

そもそも頑張ろうとして頑張れるのも、頑張ろうとしても頑張れないのも、個人の能力や努力や意志で左右できない環境的な要素が大きい。なのに「賜物」という言葉のせいで、それが何でもかんでも個人の問題になってしまう。

自分は昨日(土曜日)は仕事が忙しかったし、20時頃帰ってきて食べて寝るだけだったので、今日は礼拝行かない。

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【教会の日曜礼拝に「行く」ことについて】

土曜まできっちり働いて、日曜に朝早く起きて礼拝に行くの、正直きつい。
日曜の礼拝は「霊的に絶対必要」とか「週の初めの憩い」とか「主のもとで新しく力を受ける時」とか「クリスチャンの義務であり権利である」とか色々言われてるけど、いや体を休めるのも大切でしょ、と思う。
もちろん礼拝そのものを否定しているのでなく、日曜朝10:30以外の選択肢がないと、どうしても参加できない人もいるよね、という話。その点でオンライン礼拝はありがたいけれど、「オンライン礼拝など礼拝でない」と言われたり、確かに臨場感はないよね…と思ったり。礼拝はやっぱり(今のところ)「日曜に教会に行く」ことなのか。

それはそれとして、日曜礼拝を誰でも「休める」のは必要だと思う。
専業の人(礼拝奉仕が「仕事」の人)も必要に応じて休めるべきだし、まして兼業の無給の奉仕者が「休めない状態」なのは不健全きわまりない(うちの教会がそうだった)。「礼拝で新たな力を受ける」という言説(信仰?)は、それを妨げてしまうので良くないと思う(個人が「新たな力を受ける」のはそれはそれでいいのだけれど)。

「クリスチャンの結婚のナラティブ」と題してnote記事を書きました。保守系教会のクリスチャンが直面する結婚の困難、葛藤はある程度定型化されており、個別の経験でありながら、大勢が似通った経験をしている、という特徴があります。その定型化された物語(ある意味で神話的とも言える)を否定的な意味を込めて「ナラティブ」と表現しました。

note.com/fuminaru/n/nb09581886

この発想の転換にブレーキをかけるのが、周囲(健常者)からの「吃音者も努力すべき」論。
「言葉が出ないなら出ないなりに工夫すべき」
「周囲のせいにしても始まらない」
「筆談など併用すべき」
「吃音者だと表明して理解を得る努力をしなさい」
とか。うるせー!そんな努力とっくにやってるわ!!という感想しかない。

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【吃音者が少しでも生きやすくなるために】

吃音のストレスが年齢と共に減ってきたのは、症状が改善したからでなく(症状はちっとも変わってない)、周囲に対して「喋れなくてごめんなさい」と思ってたのが、「聞き取れないあんたが悪い」「焦らせるお前が悪い」「吃音を理解しないのがそもそも悪」と図々しく考えられるようになったから。

障害を取り巻く構造を鑑みれば、そういう「図々しさ」は実は全然図々しくない。けれどやはり若い時ほど「自分が悪い」「迷惑をかけている」という発想になりやすく、「理解のない周囲(社会)が悪い」という発想にならない。吃音のみんな、もっと「図々しく」生きよう。

ごく稀に「相手の弱点をめざとく見つけて、平気で攻撃材料にする人間」がいる。吃音はまさに攻撃対象にされて、「何言ってっか分かんないよw」とか「そんな吃らなくていいじゃんw」とかフレンドリー気味に責めて、吃音者に「自分が悪い」と思わせる(その誘導が上手い)。全力で離れるべき人間。

この「吃る自分が悪い」から解放されて、「決して自分が悪いわけではない」と思えるようになることが、吃音者の生きづらさを改善する一つのポイントになると思う(そのためには「聞き取れない相手が悪い」くらい思う必要もある)。

ただしもう「兄弟姉妹」という呼称自体、あまり使われていないように思う。聖霊派の界隈ではまだ使われているかもしれないけれど、離れて久しいので現在の事情は分からない。

しかし礼拝出席者の男女別集計は、いまだ多くの教会で使われているのではないだろうか。ひどい場合は「当教会はLGBTに理解があります」とか言いつつ、礼拝出席者を男女別でカウントしてたりして、全然理解してないんじゃないの?と思う。

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【教会での「兄弟姉妹」という呼称について】

今もあるか知らないけれど、一部のプロテスタント教会では信徒を「◯◯兄弟」「◇◇姉妹」と呼んでいて、今は気持ち悪いなと思うけれど、若い頃は所属欲求が満たされたり、居場所を見つけた感があったりで、むしろ嬉しかった。その呼称自体の問題というより、そういう満たされ方が、カルトにハマる一因かなと思う。

ただカルトの洗脳手法に「皆で同じ服を着る」とか「皆で同じ(一般的でない)言葉を使う」とかがあり、この「兄弟姉妹」という呼称も、(その由来が何であれ)カルトの洗脳に利用され得ると思う。どんな「良いもの」も、使い方次第で最悪のものに変わる。

あと「兄弟姉妹」と呼ぶことでセクシャリティを限定してしまうので、礼拝出席名簿を男女別で分けるのと同じく、もう廃れた方がいいと思う。世の中はもうHe/She/Theyで表記するようになっている。

そもそも男女別で集計したところで、そのデータを分析に使うわけではないと思う(少なくとも自分はそういう分析は見たことがない)。
仮に分析に使うなら、「男女別」だけでなく、「年齢別」とか「職業別」とか「居住地域別」とかでもカウントすべき。そうでなく、ただの慣習でしかないなら、廃止して支障ないと思う。

イベントに新来者はほぼ来なかった。その原因は「わざわざ時間を割いて見に来る程のものでないから」だけど、私達は「未信者は『霊的に』開かれてないからこの素晴らしさが分からないんだ」などと不遜にも思ってた。全然知らない団体の、文化祭クオリティの出し物を誰が見たがるのですか?という話なのだけれど。
私たちは「神の為」「伝道の為」という「良い」名目に乗っかって、次々とイベントを企画する「文化祭依存症」のような状態になっていたと思う。皆で準備して盛り上がり、困難を越えて実現させる、その過程で噴き出すアドレナリン依存症と言うか。だから結果(集客数や新来者の有無等)はガン無視していた。結局は誰かの為でなく、自分たちの為だったんだと思う。終

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【終わらない文化祭】
教会でイベントが企画され、皆でワーッと盛り上がって準備して、困難にぶつかって祈って泣いて、打ち上げで笑って、神の家族最高!となって、すぐまた次のイベントが企画されて、またワーッと盛り上がって、というのが延々と続く、まさに「終わらない文化祭」だった。活動的なキリスト教会が陥りやすい現象だと思う。
教会で披露する歌や踊りは、基本メンバーがボランティアでやるし、練習時間も限られてるし、そこまで本格を目指すものでもないので、言い方は悪いけど「文化祭クオリティ」。でも教会で「神様の為に」やると、何故か「素晴らしい」と(内輪で)評され、一般人が見る価値があるものと見做されてしまう。
それが「内輪で盛り上がる為のイベント」ならいいけど、教会のイベントである以上「伝道」が目的の一つに入っていて、だから「良いもの」だし、「神様が喜ばれるもの」だし、「みんな頑張ってる」から、「一般人もありがたがるに違いない」と錯覚してしまう(少なくともうちの教会はそうだった)。続

マストドンの500字はじっくり書けていいかも。Twitterの140字は「いかに省くか」が大切になるから、細かいことを色々諦めなければならない。どちらも一長一短だろうけど。

とんでもない教会にいたなーと自分でも思うけれど、初めて行った教会だったから、他との比較ができなかったし、「教会を比較する」という発想自体なかった。その意味でファーストコンタクトは大切。その人の教会観、キリスト教観がほぼ決まってしまう。
クリスマスを好きなままでいられる教会生活は、本当に羨ましい。

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【クリスマスの思い出】
教会で頑張っていた頃の、毎年12月の記憶があまりない。教会のイベントで忙しかったからだと思う。

12月の予定はだいたい毎年同じだった。
第2日曜が「クリスマス伝導集会(ゲストを呼んで盛大に行うもの」、
第3日曜が「クリスマス礼拝(特別賛美やダンスやスキットが盛り沢山)」、
25日の数日前に駅前で「キャロリング(寒空の下で歌とハンドベル)」、
25日に「ファミリークリスマス(教会員だけのパーティ)」、
31日に「年越し礼拝(1年を振り返るビデオとか見る)」、

どのイベントも準備が沢山あって、連日教会に泊まり込んでいた。準備の出来が悪いと牧師に叱責され、「信仰が足りない」とか説教され、謝罪させられ、一から準備し直させられた。今思うと明らかに酷い扱いだったけれど、当時は「信仰の訓練」だと思っていた。そういうのが連日続くので、もはや心が麻痺していたと思う。そのせいか記憶があまりない。毎年同じようなことをしていたので、どの記憶がどの年のものかもよく分からない。
いずれにせよ、クリスマスは一番嫌いなイベントだった。今でも祝いたくない。というのが本音。

看護師やっててショックだったことって割と沢山あるけど、今も忘れられないのが、採血したあと「あんた下手だな!」って面と向かって言われたこと。


自分も言説もリベラルだけれど、自分のことを「リベラル」とは思っていなかった。たぶん他の、リベラルな発言をする個々のクリスチャンの多くも「リベラル」を自称していないと思う。またどこかの教会が、教会単位で「うちはリベラルです」と言うこともないと思う(個々の教会のことは分からないけれど)。そういう実例を考えても、やはり「リベラル」の教会、団体、集団、グループが、どこかの保守系教会や団体との対立関係にある、ということはないのではないかと思う。

ここまでの話をまとめた仮説;
「リベラル」は保守派が設定した「仮想敵」である。そして時には個々人が「リベラル」と評されて、攻撃対象にされることがある。

以上です。

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話をキリスト教界隈に戻すと、「保守派vsリベラル」の対立関係(?)にも同じことが言えるのではないか。つまり生来的にリベラルを標榜する教派や団体が存在するのでなく、保守派の教会群やクリスチャンらが、自分たちの信仰にそぐわない、人権擁護や反差別(主に反同性愛差別だろう)を強調するクリスチャンらの言説を「リベラル」と(やや侮蔑を込めて)評したのが、いわゆる「リベラル」の誕生に少なからず寄与したのではないか。
そうだとしたら、自分がずっと感じていた「リベラルとはどの集団のことなのか」という問いが答えられると思う。「リベラル集団」が存在するのでなく、保守派が自分たちの信仰に反対する「敵」としての設定した「リベラル」が、ぼんやりした形で(時として個人の形を取りながら)存在するのではないだろうか。

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