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【キリスト教会で使われる「賜物」という言葉について】

「それぞれの賜物を用いて神様に(教会に)仕えていきましょう」という直球の能力主義が、わりとキリスト教会に蔓延している。何ができるか、どこまでできるか、で測られる信仰生活。できない/したくない人がいられない空間。だから「賜物」という言葉が自分はすごく嫌い。

これは「人は努力すればまともに生きられる、そうできないのは努力していないからだ」という【通俗道徳】に似ている。「信仰があれば教会(に関連した活動)に貢献できるはずだ、そうできないのは信仰が足りないからだ」みたいな。けれど何もできない/何もしたくない人も気兼ねなくいられるのが本来のキリスト教会なのでは。

しかし「賜物」という言葉のせいで、「全ての人にその人ならではの能力/得意分野/力がある」という能力主義が肯定されてしまう。結果、ある人々を教会から排除することになる。不信仰という汚名を着せて。

そもそも頑張ろうとして頑張れるのも、頑張ろうとしても頑張れないのも、個人の能力や努力や意志で左右できない環境的な要素が大きい。なのに「賜物」という言葉のせいで、それが何でもかんでも個人の問題になってしまう。

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