学生から教わった「ハンボノ」。この呼称は韓国語=ハングゴと日本語=イルボノの混交形ですが、実際には韓国における日本からの借用語として使うようです。
韓国で日本ブーム! イエスジャパン現象の深層に迫る - NHK クローズアップ現代 全記録
https://www.nhk.or.jp/gendai/articles/4806/#:~:text=“ハンボノ”とは韓国語,本当にありがとう」という意味です。
韓国語と日本語を組み合わせたハンボノ < ソウルメイトコラム | ソウルメイト韓国語学校
https://s-koreanschool.com/column/c20230725_jp.html
クロ現では「マジコマウォヨ」みたいにして使うとのこと。日本でも「チンチャそれな」みたいな使い方があったと書いてある。
k-popが好きな学生は確かにそんな言い方をしている。写真をサジンと言ったり、プレゼントをソンムル(贈物)といった感じで。
だから何だという話題ですが、忘れないようにここにメモ。
入間にあるジョンソンタウンをお散歩していたら、アートギャラリーに出会った。「ミウラ折り」を使ったアート作品の展示。
miura-ori Art Gallery BIWAPOT について - biwahouse-gallery ページ!
https://biwahouse-gallery.jimdofree.com/about-us/
ミウラ折りとは、人工衛星を軌道上で開くときの折り方にも採用された技術で、ご存じの方もあるかもしれない(私は知らなかったが妻が知っていた)。すごく雑に言うと、平たいものをコンパクトに折りたたんで自然な形で開く折り方です。つぼみの中にある葉っぱやさなぎのなかの甲虫の羽なども、同じ理屈で折りたたまれているというから、面白いものですね。
大きな地図などを普通に畳むとごわついてすぐに開いてしまったり、一回開くと元に戻すのが大変だったり、果ては使っているうちに破れてしまうけれど、この折り方だとそれらが全て改善されるという。
私もワークショップ形式で折り方を教わってきました。
大きな方言地図などをミウラ折りでコンパクトに畳んで本に挟む、といったことを考えたりしました。日本言語地図のPDFをダウンロードして、あとで折りたたんでみようか。1枚単位で表紙を付けて配付したりしたら、フェスなんかでちょっと面白いかもしれない。 [添付: 5 枚の画像]
柳田国男『蝸牛考』(1930)を読んでいたら、サザエの壺焼きの「ツボ」は「ツブ貝」の「ツブ」と同語源であるという説を見て、興味深いと思った次第。確かに「円谷(つぶらや)」「つぶらな瞳」、「つぶつぶ」は丸いという意味を共有していて、それが丸い巻き貝である「ツブ貝」の語源と結びついているのはそれなりに納得のいく説ではある。
柳田は、「三浦三崎などでは栄螺をツボッカヒと謂ひ、又ツボ焼きといふ複合形に至つては、現に我々の標準語でさへもあるのである。」と述べている。
越谷吾山『物類称呼』(1775)でも、相州に「つぼっかい」という語形があるという。
日本国語大辞典によれば、貝類、特にサザエを殻のまま焼いて味付けしたものが壺焼きなのであって、サザエに限定しないようだが、近畿圏の方言研究者に聞いてみると、ツブ貝を焼いて食べるものは壺焼きって言うことがあるよということだった。やはり「つぶ」が「つぼ」と通じているのかもしれない。
なんかこの手の語源説は危ないことは危ない。調理の仕方が問われる案件です。
かつて学生に勧められて『東京卍リベンジャーズ』を読んだときに、価値観のアップデートのなされなさに相当驚いた記憶がある。大手少年誌である。
対極にあるジャンプラなどではその手の心配はほとんどないので、油断していたということなのかもしれない。しかしそれを言うとヤンキーもの自体が少年誌で成立しないということにもなり、難しい。ポリコレ的に正しいヤンキーマンガというのも形容矛盾であるようにも感じられる。
少年マガジンの作家の中に性暴力を好む人間が紛れている
https://anond.hatelabo.jp/20231024005450
で、これだ。(リンク先のリンクはかなりどぎついので耐性がない方は踏まない方が良い)
個人的には表現の自由は守られるべきものだろうけれど、ゾーニングを理由に許されるというならば、それを内心の自由に置き換えて児童への性犯罪の欲望を持つものが教員でもいいか、というと少なくともどこかで表明された時点で違う倫理に触れるに違いないと思う。同様に、本件もこれが世間に漏れてしまった時点で、倫理的な問題に不可避的に曝されてしまう。その時、問われるのは言うまでもなく出版社の倫理だろう。
バレなきゃ何をやってもいいとは思わない。しかしバレたらもうダメだということも世間にはあると思う。
今日、ネットの記事で、「湯を注ぐだけで簡単に白湯ができます」的な記述を見た。ん?ってなって、とんちきなこと言ってんなと思ったのですが、界隈にはまさかの湯と白湯は違うという考え方があるようです。
連れ合いにそういう広告を見たんだよ、つったらケラケラ笑って、それ見間違いじゃないか、という。いや確かにそう書いてあったんだよ。何を言っているのか分からねーと思うが!とかいうネットミームじゃないけども。
白湯とお湯の違いと効果とは!水道水からケトルやレンジでの作り方! | Sodate(ソダテ)
https://www.eyefulhome.jp/sodate/article/tips-boiled-water/
「40度以上の水が湯」で「一度沸騰させた状態で温かいやつが白湯」という。マジか。初耳だ。我らが日本国語大辞典は「沸かしただけで、何もまぜないで飲む湯。」とある。いや、それだろう。何も混ぜないというところに意味の中核があるはずだ。
いやー、何がすごいってこうやって商売がクリエイトされるわけですよ。私が見た広告は、このポットにお湯を注ぐだけでどこにでも白湯を持ち運べます的なやつだった。これぞ虚業。無から概念を作り出した人が胴元になる仕組み。
なんと湯を注ぐだけで白湯になるんですよー、で、わー便利って。界隈すごいな。
野村剛史2011『話し言葉の日本史』吉川弘文館、読了。現代文法の専門家が、ひょんなことから文法史、音韻史へと興味を広げ、とうとう口語史を書き上げてしまった。伝統的な日本語史の概説のありかたは、口語史を過去から現在へと書き綴るので、その意味ではかなり日本語史ど真ん中の語り方だと感じた。
音韻史の部分は、私だったらこう論じるかなと思いながら読んだが、中世の文法史の部分はさすが著者のご専門ということもあって、言葉の歴史に対するパースペクティブのようなものが面白かった。ガ格が作る連体句と係り結びの関係や、片仮名申状における漢語の広がりなど、もう一度読み直したいエピソードもある。
で、そうかなあどうだろうと思うのは、「江戸の言葉+山の手に集まった地方人の言葉がコイネー化して標準語になった」という比較的広く受け入れられている説に対して、「江戸期にすでに上方由来の共通語のようなものが存在していて、それを継承したのが山の手言葉、標準語はその意味で上方語の系譜」という説。面白い、とは思う。江戸弁に一部の語彙や文法に関西の影響が見られるとは従来から言うけれど、借用とか言語接触の枠組みで語られてきたのであって、直接的な系譜と言われるとどうかなーと思う。
比較言語学的な方法論によったものでもなし、ちょっと受け入れがたい。
日本語学の研究者です。漢字音史、漢語アクセント史を文献ベースで狭くやってます。自己紹介的な論文に、「アニメ『ドラゴンボール』における「気」のアクセント─漢語アクセント形成史の断線から─」(日本語学2022年6月号)あり。データベース作ったり、自転車に乗ったり、珈琲を飲んだり、ジャム作ったりしています。https://researchmap.jp/read0135868