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そして今、ダイアナ・ウィン・ジョーンズの回想(「ファンタジーを書く」徳間書店)を読んでいて、彼女も似たような感覚を抱いたことがあるのだと知って喜んでいた。

ダイアナはある年、古い知人に呼ばれてハロウィーンの時期の集会に参加したそうです。
そこで出された料理、シーフードカクテルの一種が、どうしても「カスタードをかけたミミズ」に見えてしまったとか。
何が入っていたのでしょう。細長くぬるっとしたピンク色のものたち……。

さらに学生時代に遡ると、食堂で出された複数の料理を前にして「枯れた水仙とすりつぶしたいも虫」や「にかわの中の魚の目玉」に思えてしまった体験も語られており、彼女もなんとかそれを口に出してしまわないよう苦労したらしく。
その学校ではしきたりで、校長先生の隣に座った生徒は必ず「お行儀のよい話」をしなければならず、うっかり目の前にある料理の見た目を話題にしないよう気を配らなければならなかったみたいで。

どうしてもあれがアレに見えてしまう……という「ひらめき」は、特に食べ物の場合、マナーとしてその場では口に出さない方が良いのだろうけれど、こうしてエッセイの形で振り返られているものを読むのは安全で好き。
面白いと思う。たとえお行儀のよいものではなくても(場所を選びさえすれば!)

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類似した(?)個人的な話なんですが、私は「もんじゃ」にまったく馴染みのない文化圏で育っており……

まだ子供だった頃、東京都出身の友人に「もんじゃって〇〇にすっごく似ていると思う」とうかつに発言(〇〇に入る言葉はまあよくないものです、ご想像ください)をしたところ、厳しいお叱りを受けたことを思い出しました >BT

も、もちろん反省しています。
全然オープンではない場所で交わされた友達同士の会話なので、普通に笑い話で済んでますが……

読書タグの投稿を見て、そういえばこちらのタイトル、確か自分の本棚にも(かなーり前から)放置してあったのでは……と積読していたのを出してきた。
表紙が真っ赤。

西加奈子「通天閣」

"もう十二年ここに住んでいるが、向かいのそいつの名前を俺は知らない。何の仕事をしているのかも知らないし、話したこともない。ただ知っているのは、俺より前から住んでいたということだけだ。"
(西加奈子「通天閣」(2009) ちくま文庫 p.13)

街、社会、というのは奇怪な場所。
一生関わる機会もなさそうな人間たちが、一人とは言わずわんさかと、恐ろしいほど近くで「私」の周囲に存在している。

通勤の際に電車で読んでいるといっそう、車内で座ったり立ったりしている乗客それぞれの生活を妄想せずにはいられない。
あの、個々の身にその時、どんなことが起こっていようと、いかなる背景を背負っていようと、世界に何の影響も及ぼさない「はっきりとした」感じ。
ここがそういう場所であると実感する瞬間、その感触。

生活の途方のなさのようなもの。
他人の人生は、自分にとってはどう足掻いてみてもフィクションになってしまう。
通天閣にのぼったことのない私にとって、小説に描かれたその塔が、まったく架空の存在であるように。

ドゥームニ茶園
アッサム FTGFOP1

ストレートが特においしかったホールリーフ
目安よりも気持ち茶葉多めにいれて、蒸らし時間はそのままにしたものが好き、かもしれない。
どことなく草花の「青み」のようなものを感じさせる香りと風味が無二。

インドのアッサムは降水量が多い地方で、別に関係ないのに家の外でも雨が降っていると頭に浮かぶ。
もう10月に入って現地の雨季はあけたかな。

気管支がおかしくなり妙な咳が出るのはこの時期いつものことで、気温や湿度の変化が影響しているんだけど、さっき目の周辺の粘膜にも違和感をおぼえて思った。もしかしなくても花粉みたいなの飛んでるのかな。
10月上旬……。

花粉カレンダー|花粉症ナビ 協和キリン
kyowakirin.co.jp/kahun/about/c

まあでも10月のことが大大大好きな10月生まれよ。
1年のうちでこの短い間だけ、ちょっぴり元気。

カレーやシチューに使われているにんじんが、星だとか月だとかの形に切り抜いてあることが、どれほど自分にとって素晴らしいのか。
説明するのはなんとも難しい。

絶対にそうでなければ駄目、というような気持ちも別にないので、尚更かもしれない。

どうしても星や月の形でなければ嫌だ、と主張できるほど強い思いなら、もう少し簡単。でも実際、ごはんはきちんと食べられるなら「十分」なはずだし、おいしければさらに「良い」。量が過不足なく、美味であり、盛り付けがきれいな方が「楽しい」。
なのに、にんじんが好きなものの形に切り抜かれていること、その状態に、前に挙げた価値と拮抗するほどの「何か」をときどき感じる場合がある。

ううん、野菜を任意の形に切り抜くのも盛り付けの一環ではないのか?
確かに普通に考えたら、そう。
でも、自分の中で、いつの間にか特別な意味が与えられている。
祝福されている感じがする。

丸でも四角でも三角でも構わないものを、わざわざ余計に包丁や型の金具を動かして作る。感情を込めてでも、事務的にであっても、得られる結果は同じ。

おほしさま、おつきさま、ひょっとしたら混じっていないかなーとココイチのポークカレーをスプーンで軽くかき混ぜた。
そもそも目に見える大きさの野菜が含まれていなかった。

JR北海道 釧網本線
B76 北浜駅(Kitahama)

藻琴駅のおとなり。

映画「網走番外地」の撮影が行われた場所のひとつで、この北浜駅自体の所在地も末尾が「無番地(番外地)」らしかった。たまにある地番のない土地。
もと国鉄の民営化以降、敷地がそのまま残り、使われている影響を感じる。

北浜駅待合室の内部、壁の4面にも、天井にもびっしりと訪問者の名詞が貼られている(ちょっと怖い)中に、乗車券や航空券を残していく人もあった。
とりわけ、もう運行を終了した鉄道の切符なんかが発見できると面白い。

海に面した陸地のふちをなぞるように走る釧網本線。
でもそのうち北浜駅を取り上げて「最もオホーツク海に近い」と称する理由は、ホームに居ながらにして流氷を視界に収めることができる点にあるらしい。茂みや建造物に遮られず海を拝める。
駅舎の横には小さな展望台も。上るとオホーツク海だけでなく、天気が良ければ知床連山の一部も見えた。

ここで偶然出会ったのは快速「しれとこ摩周号」。
1日に1往復しかしておらず、何も考えずにホームにいたところ、網走方面から来てくれたのが幸運だった。目を凝らすと遠くから走行してくるのが、ライトでわかる。

非電化区間を走行する1両編成の車両はひたむきな感じがする。

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JR北海道 釧網本線
B77 藻琴駅(Mokoto)

駅名が「もこと」で、電報を打つ際に使われる略号が「モコ」なの、なんか……かわいい感じの響きだな……と思っていた。
モコ。
じゃあ、これをコピー&ペーストして横に並べてみたら、モコモコになるんだろうか。でも、基本的に鉄道の駅はコピペできない。あっという間に土地も線路も足りなくなる(そういう問題ではない)。

ここは大正13年に開業した。
近年、1日の平均乗車人数は15人に満たなくなっている。
網走方面へ向かう車両は、1日に約7本。
知床斜里・釧路方面へ向かう車両も、1日に約7本停車する。

手を入れながら存続している古い駅舎の中には現在喫茶店があって、一応、営業時間に行ってみたのだけれど開いてはいなかった。
都合により休業していたり、開店の時間が変わったりするのはよくあることだから、しばらく待ってみるも特に何も起きなかったので「覗きに来たよ~」という思念だけを扉の向こうに送っておく。

誰かがお店を開けにきたら、私の残した声だけがボソッと喋ってくれるはず。
怖いかもしれない。

待合室に設置されている椅子の、ひとつひとつ色が異なる部分が好きで、気になった。
別に全部同じ色でも良さそうなのに、わざわざそうなっているところが。

創元推理文庫『オドの魔法学校』
P・A・マキリップ 原島文世訳

引っ越し前のアカウントで、作中に登場するいくつかの食べ物だけ紹介していた小説。
原文(Od Magic)から日本語版の方に切り替えて再読した。

両親を病で失い、弟や恋人にも去られてしまって、孤独を背負う青年ブレンダン。

故郷であるヌミス王国北方の辺境で、植物や動物などの声を聴き暮らしていた彼は、ある日〈オド〉と名乗る女巨人に魔法の才を見出され都のケリオールへと赴く。
庭師の仕事がある、と言われて。
なかなか都の暮らしに慣れない彼は、ある日、学校の庭で不思議なものを見つけた……。

そこから、かつて大志を抱いていたが擦り切れてしまっている教師、望まぬ婚約に揺れる姫君、旅の魔術師の娘、そして書類仕事よりも街を歩くのが好きな地区官吏監……と次々に視点が移りかわり、最後に未来を示唆して物語が収束する。

群像劇というのだろうか、こういう形式。好きな人にはとてもおすすめ。
未知の魔法や知識を恐れて徹底した王の管理下に置き、権力側が決めたことしかできないような教育を学校で生徒に施している、ヌミス王国の現状。それがもたらした歪みや学校設立理念とのずれ、また皆の思惑が、深刻になりすぎない筆致で軽やかに描かれている。

[参照]

『ジュビリー ~ボリウッドの光と影~』
▷ シーズン1 全10話 Prime Video

人々がスクリーン上で歌い、踊る、インド映画産業(ボリウッド)発の作品は現在広く知られている。
録音技術・映像機材の発展に伴い生まれたその形式を踏襲して、20世紀半ば、インド・パキスタン分離独立を背景に「名声」をめぐる物語が展開する。

映画界の名声。
俳優、時には監督が得る誉れである。一方で『ジュビリー』におけるそれは、本物だった誰かが闇に葬られてしまった「たったひとつの名前」そのものでもあった。
マダン・クマール、という。

これは〈もういない人〉にまつわる登場人物たちの物語。
ロイ、スミトラ、ビノード、ジャイ、ニロファルほか。
もう二度と会えないジャムシェド・カーンに過去、少しでも関わった者たちが皆、それぞれの立場から彼の記憶を己の銀幕に映し出す。

彼らが憶えている限りジャムシェドはそこにいる。
映画関係者が権力・財・政治に縛られ生殺与奪を握られる中、何の後ろ盾もなく路上に放り出されたとしても、自由に演じることが至高だと信じていたジャムシェド。

この寂寥感、むしろシーズン2は無くても十分じゃないかな、と思う。
最終話にナレンの描写があったことで色々なものが回収された。

にゃ~
上の投稿文中の「フィゴット」であるべき部分が1か所だけ「ファゴット」になっちゃってて。
本当にすみません(´•ω•`)

ファゴットは楽器ですね!
ひつじ数え歌の20は、フィゴットです……。

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サリー・クルサード「羊の人類史」
森夏樹訳 青土社

3分の1位まででとても面白かった部分……それが古来より伝わり、ブリテン島周辺で多くのバリエーションが記録されている〈羊飼いのスコア〉!
ヤン・タン・テセラという数え歌。

文字通りに羊の数を数えるためのもので、1から20がひとつの区切りとなっているのだけれど、その音がなんとも流麗というか呪文みたいで記憶に残る。

1がヤン、2がタン、3がテセラ、
4がペセラ、5がピンプ、6がレセラ……

そして10のディク、まで到達すると、次の11は「ヤン・ア・ディク」即ち10+1ということになるのだが、15のバンフィットになるとまた別の区切りを迎える。
16が「ヤン・ア・バンフィット」……なのでつまりは15+1という考え方。
これ面白くないですか?
その次の区切りが20、ファゴット、でおしまい。

5 ピンプ
10 ディク
15 バンフィット
20 フィゴット

……と、5の倍数のときに他とは末尾の音が異なる語を持ってくることで、これはロープにつけた結び目の印みたいな使い方ができるのだ。
歌うような声が羊たちの合間を縫って、踊るように群れを数える。

ちなみに「ヤン」は英国ヨークシャーで、1を数える方言として今でも残っている。

数日前からストームグラスの内部が吹雪みたいな様相で、できる結晶が大きく、中心の山が白く閉ざされている。
ガラスの山といえば、脳裏に浮かぶのは昔話。それもヨーロッパ各地に残る類の。

有名なのはノルウェーの童話に登場するものや、グリム兄弟が収集した話の数々だが、私にとってはかつて買い与えられた偕成社の本(学年別新おはなし文庫の一冊)に掲載されていたポーランドの童話、「ガラスの山 (Szklanna Góra)」が最も印象に残っているのだった。

これはアールネ・トンプソンのタイプ分類(昔話の類型)では530番、「ガラスの山のお姫様」に振り分けられている。
つまり世界中に似たような物語があるということ。

ポーランド童話に登場するガラスの山には、頂上に黄金の林檎のなる樹が生えている。
ヤマネコの爪と、ワシの翼の力を借り、騎士が斜面を登る。
周囲には過去、登頂に失敗した他の騎士たちの骨が積み上がり、死屍累々としたありさま。

グリム童話「七羽のカラス」に出てくるガラスの山も、死や死後の世界を象徴しているように思える。
でもそれは物語の中で、生者の住まう領域と地続きの部分にあって、隔絶されてはいない。それが「一次元的な昔話」の興味深いところでもある。

私は球体の中の綺麗な山をじっと見ている。

屋外。樹木や枯葉。うす暗い場所。
「彼」は生活の大部分をそこで遊び過ごしている。〈記憶の森〉と呼ばれる場所で。
視界を横切るのは、動物の死骸を漁るカラスだろうか。

"でも、ここはぼくの家じゃなくて、ただの汚れた影だ。キッチンに足を踏み入れ、もう一度自分に言いきかせる。
 ここはぼくの家じゃない。"
(角川文庫「チェス盤の少女」(2020) サム・ロイド 大友香奈子 訳p.21)

イギリスの作家サム・ロイドのデビュー作《The Memory Wood(記憶の森)》が私はわりと好きで。

でも嗜好に合いそうな人に和訳の方をおすすめしようと思うと、「チェス盤の少女」……という何ともいえない邦題を示さなければならないのが難儀なのだった。
大友香奈子氏による翻訳、別に本文の訳には大きな違和感を抱かなかったので、尚更タイトルがもったいない気持ちになる。
確かに語り手のひとりである少女はチェスに情熱を注いでいるし、それが印象的な場面もあるけれど……

どちらかというと昔話に登場するような深く鬱蒼とした森と、設定は現代であるはずが、どういうわけか奇妙に幻想的かつ古びた名前を持つ諸々の要素が印象的。
その上で架空の誘拐事件が取り扱われており私は好き。

一応ジャンルはサスペンス・スリラー。

千野 さんがブースト

『独裁者の料理人』(ヴィトルト・シャブウォフスキ著、芝田文乃訳)を読みました。
サダム・フセインやポル・ポトなど、20世紀の独裁者に実際に料理人として仕えていた人々へのインタビュー。よく見つけ出してこれだけの取材ができたなぁと思います。生き残るためには、料理の腕がいいだけでなく、賢くて機転がきく必要があったことがよく分かります。彼らが独裁者にどんな料理を供したのか、簡単なレシピ付きで説明があり(本当に簡単で材料の羅列レベル)、贅沢な料理というより地元の素朴な料理が好まれるケースがわりと多くて印象的でした。美味しそうではあるんですが、暴力や飢えや死に怯える緊張感の中で出てくるので、読んでいてお腹がすく本ではないです。
#読書

大澤千恵子『〈児童文学ファンタジー〉の星図 アンデルセンと宮沢賢治』を読み終わる。

著者が「星図」と称して抽出した要素には、題で名前を挙げた2人の作品を並べたとき見出せる関連……自尊感情、宗教、他者愛などがある中で、私はずっと「あこがれ」というものについて考えていた。
個人的に、彼らの描くあこがれの様相に共通点を見出していた。

"あのりっぱな堂々とした鳥のところへ飛んで行こう! だけど、こんなみにくい僕みたいなものが、遠慮なく近づいていったら、殺されてしまうかもしれない。でも、かまわない!"
(H・C・アンデルセン「完訳 アンデルセン童話集(二)」大畑末吉訳 岩波文庫 p.141)

"お日さん、お日さん。どうぞ私をあなたの所へ連れてって下さい。灼けて死んでもかまいません。私のようなみにくいからだでも灼けるときには小さなひかりを出すでしょう。どうか私を連れてって下さい。"
(宮沢賢治「よだかの星」青空文庫より)

自分の命(寿命)と引き換えにしても、そこに行きたい。
結果として死んでしまっても構わないから手を伸ばしたい。

それくらい強い思いが『木の精のドリアーデ』や『人魚姫』にも描かれている。アンデルセンの読者だった賢治へと受け継がれていったものや、影響についてなんとなく想像した。

フォレストレインティーの茶葉を練り込んだサブレ。
オンラインでは取り扱いがないので店頭を訪れたついでに……。

本体の歯触りは軽めでサクサク、しばらく噛んでいるとバターに並んでリンゴ、イチゴ、アプリコットなど果物の風味が滲んでくるのと、不意に塩味を感じる。
ゲランドの塩使用って書いてある。

こちらは季節限定のサブレで、通年でいつも販売されている方がダージリンティー風味のサブレみたいだった。
どちらも日々の中でたまーに食べたくなるような。

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気温が下がった。今!
という勢いで一緒に買ったTWG シンガポールブレックファストをば。
私が利用した店舗では50gから茶葉の量り売りあった。

紅茶と緑茶のブレンドをベースとしてオレンジピールやシナモン、ショウガ、クローブなど各種香辛料の風味があるものの、強い刺激や重たさとかは全然なくて、むしろ全体的にはまろやかでさえある。甘みも。
後ろの方にバニラが控えめに。

飲むと身体が温まる感じ、する。

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