ポール・ラフォルグ(マルクスの娘婿)の「怠ける権利」を参照しつつ、〈機械〉技術の躍進が、最終的には労働者たちを労働から解放させる、という有名な最終の頌歌。これが、20世紀前期当時の共産主義者を含めた労働運動の「技術崇拝的な進歩主義」の夢をそのまま描いたのかどうか。映画をみながら妻が頻りにポール・グリモー=ジャック・プレヴェール『やぶにらみの暴君』『王と鳥』との類似(確かに「10月グループ」との関係などを考えるに、『モダン・タイムズ』よりもむしろこちらの系譜のほうによく調べておくべきものがあるように思えた)を指摘していたが、戦後に制作された『暴君』『王と鳥』では、そのような機械=生産主義信仰のような側面が、明らかに後退して否定的になっていた。
これを観た学生の頃の時代(80年代)が急速に遠ざかり、現在になって時代はむしろようやくこの映画に追いついたともいえる。昨日は朝から『戦ふ兵隊』を30分ほど見なおしたりと、それなりに休暇らしく過ごした。BTSのMVを家族と初めて観て、こちらもいろいろと考えさせられた。
“ Marx on books: he defined himself "a machine condemned to devour books and then throw them, in a changed form, on the dunghill of history"
He used to say: "books are my slaves & must serve me as I wish". They were not treated as luxury items but as essential tools of learning.
#Marx would turn down the corners of the pages, make pencil marks in the margin and underline lines. He never wrote on books, but sometimes he added an exclamation mark when the author went too far. His system of underlining made it easy for him to...”
https://twitter.com/marmusto/status/1608893421439320064?s=46&t=a0lxtj61hpimSV3m57v-NA
“Faced with the convergence of economic, social, political and environmental crises, the importance of the public sector has been rediscovered on a global scale. The article offers a review of the evolution of political and academic debates on public ownership in general and public services provision in particular over the last decades, with emphasis …”
The Future is Public! | Transnational Institute https://www.tni.org/en/article/the-Global-Reclaiming-and-Democratization-of-Public-Ownership
これは嬉しい投稿です。
ポール・ニザンには、野沢協による『トロイの木馬』(1967、新日本出版社、「アデン・アラビア」も所収、叢書「世界革命文学選」)の翻訳があります。先生らしい周到な解説の一部を、歴史的記録としてあげておきます。
QT: https://fedibird.com/@yoshiomiyake/109590349823132942 [参照]
昨日発売。
『中世史とは何か』
「暗黒の中世」は近代が創り出した物語だ。ケンブリッジ大学教授が誘う、ドキドキの本格的な中世史入門。
How to use system commands (best in Linux and Mac) to manipulate text, configure Obsidian, and do other templatey things.
「啄木は、自分以外の誰かにも何かにも頼まないで自分で問題を引きうけてそれをどうにかしようとした。それが彼の文学だつた。かりに日本の後れということを持ちだすとすると、啄木は他の何かによつてこれをあざ笑わないでその後れそのものに立ってそれの処理、解決、発展を考えた。そしてその考えを自分の手あしを働かしていくらかでも実現しようとした。そこを私は「尊い」という言葉で思うこともある。身と心とに沁みる一つには彼の文体ということもあつた。文体ということを私は詩も短歌も散文もふくめていう。それは、あつかわれた事柄の硬軟にかかわらず本質的に質実だつた。本質的に健康で剛健だつた。それはよき文学の真の軸であり、また何かを切実に求めて行く人間のどうしてもそうなるほかはない真実のものだつた。その死から半世紀以上して、あらゆる弱点を勘定に入れてもこれが残るというこの啄木の事実、そしてこれが、人を酔わせる特殊な美味として教育であるということを私は尊重し尊敬する。日本のすべてのジェネレーションが、もう一度啄木をくぐることは重大なことであるだろう。その結実はいわば啄木風にいろいろに空想することができる。」
「そこで啄木は、家庭生活で妻に忠実な夫、夫に忠実な妻は、近代的でないといつて笑ったり、国家や社会について素朴な考えを進めようとするものを、あれは文学に忠実な作家でないなぞというものがいるけれども、自分はそういうものに賛成することができない。ことに、夫に忠実な妻を笑ったり、妻に忠実な夫を笑ったりして、妻があつても他に愛人を作ることが「近代的」だという連中は、家庭では細君と喧嘩してしかしみやげ土産を買って帰るという連中で、そういうものこそあさましい堕落だということを言っている。そこで啄木は、もし近代的ということがその時代の欠点、弱点を、病的にまでもつているということならば、家庭生活、社会生活の新しい道はどこにあるかをまじめに考える人を軽んじて、自分たちは神経が鋭いから強い絶望感を抱いている、病的に弱々しい、それを誇りとするのが「近代的」だというのならば、自分は非近代的であることを誇りとせつかちしよう。こういう性急な考え方にたいして、自分たちは性急でない、牛のようにのろのろとした心をもつて対抗して行きたいということを言っているのであります。このことは、こんにち「近代的」という言葉が
さらにその後、中野重治全集16巻の啄木論を読む。加藤の書いた中野の文体論に新しくまた撲たれたから。中野はこう書いている。
「さらに考えてみると、そういう性急な考え方、目の前に出てきた問題、その問題から逆に他の人びとを攻撃して行くというあわてふためいた考え方、進み方というものが日本人に昔からあつたのかも知れない。なぜかというと、啄木によりますと、日本の政治組織、社会組織、国家と人民との関係、これが日本人の性急な思想を育てるに非常に役立っている。たとえば、忠君愛国となると、もうすべてが一本に統一せられ、忠君愛国についてさらに考えを深めよう、そこから出てくるさらに新しい疑問について考えようとすると、これをいきなり国家も社会もたたきつけてしまう。そこで啄木のいうのには、こういうあわてふためいた考え方の根拠が、日本の国家というものにあるのならば、その日本人が国家について真面目に考える揚合、そこでこそ、国家問題に関する人びとの考え方がいちばん深いところまで進むべきではなかろうか。たとえば日本で長いあいだ、天皇中心主義が力を振るっていましたが、この天皇中心主義が非常に力強いものだつたと
逸見龍生。大学教員。#18世紀 #フランス文学・思想。リヨン高等師範学校古典思想史研究所招聘教授。編著に『百科全書の時空―典拠・生成・転位―』(2018)、『啓蒙思想の百科事典』(2023) 等。#Dix-huitièmiste. #Diderot et l'#Encyclopédie. Opinions are my own. #百科全書 #啓蒙思想