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午前中にスピノザを院生と、18世紀研究書を研究会と読む。週末は動けないはずなので、今日のうちにいろいろと進めておかないと。

トランプ、ボルソナロのシンパによる米国・ブラジル議会襲撃の報道を聞くにつけ、スピノザと1672年動乱での民衆によるデウィット兄弟虐殺のことを思い出す。スピノザはこの虐殺の報を聞いて声を挙げて啼いたという。あのスピノザが、だ。

同紙編集長による抗議文。事件直前に同紙が戯画化したイラン政権によるサイバーテロの可能性が示唆されている。

@undefined 次の2頁は真珠湾攻撃直後のアメリカの様子。暴徒に対して日本人市民たちの擁護に勇敢に立ち上がるかれらのことばと行動が鮮やかにかかれている。

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彼が前半生を物語った自伝は『ギターをとって弦をはれ』という題名で邦訳されている。復刊されるといいのだが。スタインベック『怒りのぶどう』さながらの貧困農民たちとガスリーの会話。

ポール・ラフォルグ(マルクスの娘婿)の「怠ける権利」を参照しつつ、〈機械〉技術の躍進が、最終的には労働者たちを労働から解放させる、という有名な最終の頌歌。これが、20世紀前期当時の共産主義者を含めた労働運動の「技術崇拝的な進歩主義」の夢をそのまま描いたのかどうか。映画をみながら妻が頻りにポール・グリモー=ジャック・プレヴェール『やぶにらみの暴君』『王と鳥』との類似(確かに「10月グループ」との関係などを考えるに、『モダン・タイムズ』よりもむしろこちらの系譜のほうによく調べておくべきものがあるように思えた)を指摘していたが、戦後に制作された『暴君』『王と鳥』では、そのような機械=生産主義信仰のような側面が、明らかに後退して否定的になっていた。

これを観た学生の頃の時代(80年代)が急速に遠ざかり、現在になって時代はむしろようやくこの映画に追いついたともいえる。昨日は朝から『戦ふ兵隊』を30分ほど見なおしたりと、それなりに休暇らしく過ごした。BTSのMVを家族と初めて観て、こちらもいろいろと考えさせられた。

“ Marx on books: he defined himself "a machine condemned to devour books and then throw them, in a changed form, on the dunghill of history"

He used to say: "books are my slaves & must serve me as I wish". They were not treated as luxury items but as essential tools of learning.

would turn down the corners of the pages, make pencil marks in the margin and underline lines. He never wrote on books, but sometimes he added an exclamation mark when the author went too far. His system of underlining made it easy for him to...”

twitter.com/marmusto/status/16

“Faced with the convergence of economic, social, political and environmental crises, the importance of the public sector has been rediscovered on a global scale. The article offers a review of the evolution of political and academic debates on public ownership in general and public services provision in particular over the last decades, with emphasis …”

The Future is Public! | Transnational Institute tni.org/en/article/the-Global-

これは嬉しい投稿です。

ポール・ニザンには、野沢協による『トロイの木馬』(1967、新日本出版社、「アデン・アラビア」も所収、叢書「世界革命文学選」)の翻訳があります。先生らしい周到な解説の一部を、歴史的記録としてあげておきます。
QT: fedibird.com/@yoshiomiyake/109
[参照]

三宅 芳夫  
P.ニザン(1905-1940)上       ブルトン人(ブルターニュのケルト系の人々)の家系に生まれる。    パリの名門リセ「アンリ4世」校、「ルイ・ル・グラン(ルイ14世)」校、そしてENSにてJ=P.サルトルと同級にして親友。  二人は外見も非常によく似ており、「双子」とも評された。...

有給休暇日、旧師の墓参にご家族により車でお連れいただきました。道すがら、また先生の旧宅に戻ってから、ご家族よりあれこれと先生のことを伺え、懐かしくまた心安らぐ一日となりました。

昨日発売。

『中世史とは何か』
「暗黒の中世」は近代が創り出した物語だ。ケンブリッジ大学教授が誘う、ドキドキの本格的な中世史入門。

iwanami.co.jp/book/b616715.htm

Séminaire d'histoire des idées - Session 2023 ENS de Lyon LABEX-CoMod

北書店で購入した古書のひとつに、香内三郎『言論の自由の源流──ミルトン『アレオパジティカ』周辺』があった。

冒頭にE・M・フォスターと矢内原忠雄が引かれ、あとがきにはレオ・シュトラウスの『迫害と書くことの技術』がある(シュトラウスのこの書の翻訳が未だ出ていないらしいのは全く解せない)。

億万長者E・マスクのネット言論空間での専横、ロシアやイラン等の国々の言論の現在を前にしながら読むと、褪せることはない。寛容論とはまず、言論メディアの存在様式への問いと切り離せない。ふたつはセットなのだ。

買い物に。気圧のせいか、頭痛がしている。帰路にカフェでホットジンジャーエール。

「啄木は、自分以外の誰かにも何かにも頼まないで自分で問題を引きうけてそれをどうにかしようとした。それが彼の文学だつた。かりに日本の後れということを持ちだすとすると、啄木は他の何かによつてこれをあざ笑わないでその後れそのものに立ってそれの処理、解決、発展を考えた。そしてその考えを自分の手あしを働かしていくらかでも実現しようとした。そこを私は「尊い」という言葉で思うこともある。身と心とに沁みる一つには彼の文体ということもあつた。文体ということを私は詩も短歌も散文もふくめていう。それは、あつかわれた事柄の硬軟にかかわらず本質的に質実だつた。本質的に健康で剛健だつた。それはよき文学の真の軸であり、また何かを切実に求めて行く人間のどうしてもそうなるほかはない真実のものだつた。その死から半世紀以上して、あらゆる弱点を勘定に入れてもこれが残るというこの啄木の事実、そしてこれが、人を酔わせる特殊な美味として教育であるということを私は尊重し尊敬する。日本のすべてのジェネレーションが、もう一度啄木をくぐることは重大なことであるだろう。その結実はいわば啄木風にいろいろに空想することができる。」

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いわれていまして、それには理由もあるのですが、啄木が書いた一九一〇年と同じように、三十八年たつた今日にも、三十八年まえと非常に似たことが、もう少しハイカラな外国語なんかでいわれていまというところに行くのであります。」

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「そこで啄木は、家庭生活で妻に忠実な夫、夫に忠実な妻は、近代的でないといつて笑ったり、国家や社会について素朴な考えを進めようとするものを、あれは文学に忠実な作家でないなぞというものがいるけれども、自分はそういうものに賛成することができない。ことに、夫に忠実な妻を笑ったり、妻に忠実な夫を笑ったりして、妻があつても他に愛人を作ることが「近代的」だという連中は、家庭では細君と喧嘩してしかしみやげ土産を買って帰るという連中で、そういうものこそあさましい堕落だということを言っている。そこで啄木は、もし近代的ということがその時代の欠点、弱点を、病的にまでもつているということならば、家庭生活、社会生活の新しい道はどこにあるかをまじめに考える人を軽んじて、自分たちは神経が鋭いから強い絶望感を抱いている、病的に弱々しい、それを誇りとするのが「近代的」だというのならば、自分は非近代的であることを誇りとせつかちしよう。こういう性急な考え方にたいして、自分たちは性急でない、牛のようにのろのろとした心をもつて対抗して行きたいということを言っているのであります。このことは、こんにち「近代的」という言葉が

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すれば、その天皇中心主義について日本人が考えを及ぼして行く場合、天皇中心主義にたいする考え方では日本人がいちばん深いところまで行くわけである、また行かねばならぬわけである、というところに行くのであります。」

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さらにその後、中野重治全集16巻の啄木論を読む。加藤の書いた中野の文体論に新しくまた撲たれたから。中野はこう書いている。

「さらに考えてみると、そういう性急な考え方、目の前に出てきた問題、その問題から逆に他の人びとを攻撃して行くというあわてふためいた考え方、進み方というものが日本人に昔からあつたのかも知れない。なぜかというと、啄木によりますと、日本の政治組織、社会組織、国家と人民との関係、これが日本人の性急な思想を育てるに非常に役立っている。たとえば、忠君愛国となると、もうすべてが一本に統一せられ、忠君愛国についてさらに考えを深めよう、そこから出てくるさらに新しい疑問について考えようとすると、これをいきなり国家も社会もたたきつけてしまう。そこで啄木のいうのには、こういうあわてふためいた考え方の根拠が、日本の国家というものにあるのならば、その日本人が国家について真面目に考える揚合、そこでこそ、国家問題に関する人びとの考え方がいちばん深いところまで進むべきではなかろうか。たとえば日本で長いあいだ、天皇中心主義が力を振るっていましたが、この天皇中心主義が非常に力強いものだつたと

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