P.ニザン(1905-1940)上
ブルトン人(ブルターニュのケルト系の人々)の家系に生まれる。
パリの名門リセ「アンリ4世」校、「ルイ・ル・グラン(ルイ14世)」校、そしてENSにてJ=P.サルトルと同級にして親友。
二人は外見も非常によく似ており、「双子」とも評された。
サルトルは、ニザンへの追悼で、「ヴァレリーとジッド」を「双子」と呼び、自分たちを「彼らの甥」と位置づけている。
ニザンは、ENSを中退、アラビア半島のアデンにフランス人政治家の家庭教師として、同行し、現地での「帝国主義」・「植民地主義」の実態を見聞。
この際の経験をベースにして、小説『アデン・アラビア』を執筆。
「僕は二十歳だった。これが人生のもっとも美しい年齢だなどとは誰にも言わせない」
この一文で知られる『アデン・アラビア』は高い評価を受け、以後『アントワーム・ブロワイエ』、『陰謀』などの小説を発表。
同時に「帝国主義」・「植民地主義」への批判から出発して、1927年、ブルトン、アラゴン、エリュアールらシュルレアリストの詩人たちと共産党に入党。
1935年からの人民戦線の構築には文化部事務局長的な立場から深く関与した。