すれば、その天皇中心主義について日本人が考えを及ぼして行く場合、天皇中心主義にたいする考え方では日本人がいちばん深いところまで行くわけである、また行かねばならぬわけである、というところに行くのであります。」
「啄木は、自分以外の誰かにも何かにも頼まないで自分で問題を引きうけてそれをどうにかしようとした。それが彼の文学だつた。かりに日本の後れということを持ちだすとすると、啄木は他の何かによつてこれをあざ笑わないでその後れそのものに立ってそれの処理、解決、発展を考えた。そしてその考えを自分の手あしを働かしていくらかでも実現しようとした。そこを私は「尊い」という言葉で思うこともある。身と心とに沁みる一つには彼の文体ということもあつた。文体ということを私は詩も短歌も散文もふくめていう。それは、あつかわれた事柄の硬軟にかかわらず本質的に質実だつた。本質的に健康で剛健だつた。それはよき文学の真の軸であり、また何かを切実に求めて行く人間のどうしてもそうなるほかはない真実のものだつた。その死から半世紀以上して、あらゆる弱点を勘定に入れてもこれが残るというこの啄木の事実、そしてこれが、人を酔わせる特殊な美味として教育であるということを私は尊重し尊敬する。日本のすべてのジェネレーションが、もう一度啄木をくぐることは重大なことであるだろう。その結実はいわば啄木風にいろいろに空想することができる。」
「そこで啄木は、家庭生活で妻に忠実な夫、夫に忠実な妻は、近代的でないといつて笑ったり、国家や社会について素朴な考えを進めようとするものを、あれは文学に忠実な作家でないなぞというものがいるけれども、自分はそういうものに賛成することができない。ことに、夫に忠実な妻を笑ったり、妻に忠実な夫を笑ったりして、妻があつても他に愛人を作ることが「近代的」だという連中は、家庭では細君と喧嘩してしかしみやげ土産を買って帰るという連中で、そういうものこそあさましい堕落だということを言っている。そこで啄木は、もし近代的ということがその時代の欠点、弱点を、病的にまでもつているということならば、家庭生活、社会生活の新しい道はどこにあるかをまじめに考える人を軽んじて、自分たちは神経が鋭いから強い絶望感を抱いている、病的に弱々しい、それを誇りとするのが「近代的」だというのならば、自分は非近代的であることを誇りとせつかちしよう。こういう性急な考え方にたいして、自分たちは性急でない、牛のようにのろのろとした心をもつて対抗して行きたいということを言っているのであります。このことは、こんにち「近代的」という言葉が