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さらにその後、中野重治全集16巻の啄木論を読む。加藤の書いた中野の文体論に新しくまた撲たれたから。中野はこう書いている。

「さらに考えてみると、そういう性急な考え方、目の前に出てきた問題、その問題から逆に他の人びとを攻撃して行くというあわてふためいた考え方、進み方というものが日本人に昔からあつたのかも知れない。なぜかというと、啄木によりますと、日本の政治組織、社会組織、国家と人民との関係、これが日本人の性急な思想を育てるに非常に役立っている。たとえば、忠君愛国となると、もうすべてが一本に統一せられ、忠君愛国についてさらに考えを深めよう、そこから出てくるさらに新しい疑問について考えようとすると、これをいきなり国家も社会もたたきつけてしまう。そこで啄木のいうのには、こういうあわてふためいた考え方の根拠が、日本の国家というものにあるのならば、その日本人が国家について真面目に考える揚合、そこでこそ、国家問題に関する人びとの考え方がいちばん深いところまで進むべきではなかろうか。たとえば日本で長いあいだ、天皇中心主義が力を振るっていましたが、この天皇中心主義が非常に力強いものだつたと

すれば、その天皇中心主義について日本人が考えを及ぼして行く場合、天皇中心主義にたいする考え方では日本人がいちばん深いところまで行くわけである、また行かねばならぬわけである、というところに行くのであります。」

「そこで啄木は、家庭生活で妻に忠実な夫、夫に忠実な妻は、近代的でないといつて笑ったり、国家や社会について素朴な考えを進めようとするものを、あれは文学に忠実な作家でないなぞというものがいるけれども、自分はそういうものに賛成することができない。ことに、夫に忠実な妻を笑ったり、妻に忠実な夫を笑ったりして、妻があつても他に愛人を作ることが「近代的」だという連中は、家庭では細君と喧嘩してしかしみやげ土産を買って帰るという連中で、そういうものこそあさましい堕落だということを言っている。そこで啄木は、もし近代的ということがその時代の欠点、弱点を、病的にまでもつているということならば、家庭生活、社会生活の新しい道はどこにあるかをまじめに考える人を軽んじて、自分たちは神経が鋭いから強い絶望感を抱いている、病的に弱々しい、それを誇りとするのが「近代的」だというのならば、自分は非近代的であることを誇りとせつかちしよう。こういう性急な考え方にたいして、自分たちは性急でない、牛のようにのろのろとした心をもつて対抗して行きたいということを言っているのであります。このことは、こんにち「近代的」という言葉が

いわれていまして、それには理由もあるのですが、啄木が書いた一九一〇年と同じように、三十八年たつた今日にも、三十八年まえと非常に似たことが、もう少しハイカラな外国語なんかでいわれていまというところに行くのであります。」

「啄木は、自分以外の誰かにも何かにも頼まないで自分で問題を引きうけてそれをどうにかしようとした。それが彼の文学だつた。かりに日本の後れということを持ちだすとすると、啄木は他の何かによつてこれをあざ笑わないでその後れそのものに立ってそれの処理、解決、発展を考えた。そしてその考えを自分の手あしを働かしていくらかでも実現しようとした。そこを私は「尊い」という言葉で思うこともある。身と心とに沁みる一つには彼の文体ということもあつた。文体ということを私は詩も短歌も散文もふくめていう。それは、あつかわれた事柄の硬軟にかかわらず本質的に質実だつた。本質的に健康で剛健だつた。それはよき文学の真の軸であり、また何かを切実に求めて行く人間のどうしてもそうなるほかはない真実のものだつた。その死から半世紀以上して、あらゆる弱点を勘定に入れてもこれが残るというこの啄木の事実、そしてこれが、人を酔わせる特殊な美味として教育であるということを私は尊重し尊敬する。日本のすべてのジェネレーションが、もう一度啄木をくぐることは重大なことであるだろう。その結実はいわば啄木風にいろいろに空想することができる。」

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