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黒ノ岸シン さんがブースト

:hyuki: DynalistからLogseqに移行した話

Logseq の話をしましょう。

dynalistを使うのをやめて、Logseqを使うようになって、少し時間が過ぎました。今はもうすっかり慣れてしまったので、Dynalistのことをほとんど忘れてしまったほどです。忘れてしまったというのは、意識に登らなくなったという意味です。

Logseqはアウトライナーで、ローカルのファイルとして保存されるのが特徴の1つです。私はローカルなアウトライン機能付きのエディターとして使っています。日記のようなものを書く機能もあるんですが、そちらのほうはあまり使っていません。

テーマごとにドキュメントを作って、その中にアウトラインで階層化された項目を並べていくというのが基本的な使い方です。

私の場合には、プロジェクトごとに1つのファイルにしてあって、自分が書く文章ごとに項目を切っている感じですね。

具体的には、Web連載用のドキュメントが1つあり、連載のシーズン(10回分の記事)ごとに項目があって、下位の項目として、毎週の記事に関する情報をまとめておくような使い方になります。

Logseqの上で、最終的な原稿を書くわけではありません。そこには、自分が書こうとしている内容のメモ書きや、参考書からのスクリーンショットの貼付や、それに対するコメントや、思いついたセリフや、関係するかもしれないPDFへのリンクや、そういった雑多な情報をどんどん書き入れている。そんな使い方になります。

記事となる文章はVimでかくので、Logseqはメモを保存・参照するために置いてあるのです。

貼り付けた画像も、それからアウトラインのテキストも、全てローカルのファイルに保存されるのは、大きな安心感があります。何かの都合でネットが使えないというときでも問題なく使えますし、サーバーのメンテナンスや、あるいはツールが壊れたときであっても、ファイルそのものは残っていますので、大きな支障はありません。この安心感はいいですね。

さらには、そのファイルを保存しているディレクトリを私はgitで管理しており、定期的にリモートリポジトリに保存していますから、万が一ローカルなディスクが壊れたとしても、そこまでメモしておいた情報が失われることは基本的にありません。ちゃんと自分が把握してコントロールしている状態になっているのは嬉しいことです。

もちろん、安心感だけで使っているわけではなくて、基本的なアウトライナーとしての機能も充分すぎるほどです。

思いついたことをとにかくどんどん書いていけるのがアウトライナーの魅力の1つです。考えている階層は時々変わりますので、そのときには、アウトラインのレベルを変えることでコントロールできます。

また、「ここまで書いてきた内容はあまりにも詳細なので、いったんこれは見ないで別の話を考えよう」というときには、アウトライナーの機能を使って項目を閉じます。そうすると詳細部分は画面から消えますので、そこに目を奪われることなく、別のことを考え始められるのです。これは非常に嬉しい機能です。

たとえば、EvernoteのEvernoteにも箇条書き機能はあるんですが、このような折りたたむことができないので、アウトライナーとは言い難いですね。

そして、また嬉しいことに、Logseqでは、数式が簡単に書けますから、原稿の1部をメモしておくにも都合がいいですね。

またLogseqはアウトライナーであると同時に、Markdownエディターでもありますので、たとえばウェブのリンクをMarkdown形式でコピペすれば、すぐにアウトライナーのドキュメントの中から、そのウェブサイトへのジャンプができることになります。

私は、Markdown形式でウェブのリンクをクリップボードに入れるブックマークレットなどを作って使っていますので、シームレスにウェブ閲覧とアウトライナーを使った思考がリンクすることになります。これは嬉しいですね。

少し前に、DynalistからLogseqへの移行を考えたときは、やや不安なところはありましたが、今となってみると、大変良い判断だったと言えるでしょう。

dynalistで自分がやっていた作業は、慣れてしまえばLogseqで問題なくできていますし、さらには様々な安心感や、自分の使い方にしっくりくる部分が加わったからです。

黒ノ岸シン さんがブースト

本当に良い本なので、【拡散】にご協力いただけると嬉しい。この社会に住み、明日を作る、私たち皆で分かち合うべき一冊だ。

石井正則『13 ハンセン病療養所からの言葉』(トランスビュー)。

入所者の詩と石井氏の撮影した写真とが、確かにこの場にあった、個々の生や死を、再び、立ち上げる。

巻末の木村哲也氏の解説は、この病に蒙い私を啓く。

私には、とりわけ、100-101ページに掲載される「差別文書」、その「平15.11.25」という日付が、異様なほどに重かった。

この「差別文書」への思いは、石井氏によっても、木村氏によっても、一切、語られない。

けれども、その思いを、これ以上ないほどに、雄弁に語っている。

hanmoto.com/bd/isbn/9784798701

黒ノ岸シン さんがブースト

オタクやツイッタラーがよく使うような語感が強くて雑な語彙は、話を粗雑にしてしまうので真面目に生きるつもりがあるならあまり使わない方が良いだろうと思っているけど、その一方で雑な存在や事物に対して憤りや呆れを表現する時には報復的に雑に表現したくなるのも事実。我慢した方がいいとは思う。

いまのMastodonはまだ「Mastodonに興味を持つような文化圏内のひと」ばかり集まっている流れなわけで、ある程度の偏りがあって、たぶんその偏りが現状の楽しい空気を醸成してくれている。
偏りって単語自体はそこそこマイナスイメージ付いてしまっている昨今の感じもあるけど、楽しい場所に楽しいひとたちが集まるのも偏りなので、言葉だけ見て避けててもしょうがない(こういうときにフラットイメージを作ってくれるのがカタカナ語だったりするけど)

今後どれくらいの拡がり感になっていくのかなとは良くも悪くも思う。

読書タグも面白いな
タグでのタイムライン運用って楽しいが、いままで経験なかった
Instagramがこういう方針だったと聞いたことがあるけど、いまでもそうかは不明
タグの活躍はニコニコ動画の頑張りがあったと認識しているけど、ニコニコも、タグでのタイムライン構築みたいなことができたら楽しかったのにな~(検索で時系列に並べて似たようなことはできたけど)


2023年1月27日(金)

はてなブックマーク経由で話題の記事をよく見る。はてな匿名ダイアリーという誰でも書ける匿名の文章が取り上げられていることも多い。ただ、極端な言い回しをして注目を集めているだけの記事が話題になっていることもあって(みんなツッコみたくなるから)、それは、なんとなく好きじゃない。「そのひとが実際には思っていないこと」に真面目に向き合う、という構造が好きじゃないんだと思う。
釣り文章に、釣りだろ、っていちいち言うのは無粋(みんなそれをわかったうえでジョーク的に遊んでいるんだよ)みたいな文化もあると聞いたことがあって、そのことも意識してしまうのだけど、それでも、うーん、ってなる。いやたしかにそういう楽しみかたをしているときもあるんだよなあ。嘘っぱちの応酬でジョーク的に遊んでいるときもある。ただ、それってもっと親密さとか身近さがあるよなとも思った。知らん人とやる気になれない、という個人的な意識の問題なのかなー。

トゥートの文字数。あっさり書き切れてまだ書きたいというときもあれば、逆のときもある。話の拡げる手腕に波があって、その波がどう決まっているかはほんとうに謎だ。誰かと話していても、相槌がうまいときとうまくないときがある。なにが影響しているか謎だ。


2023年1月26日(木)

いろいろ調べたり、ひとのオススメを辿ったりした結果、新しいものに遭遇し、それがとても楽しいと、とても嬉しくなる。人生のなかで明示的に好きな瞬間のひとつだ。なのでずっと、どんどんオススメして欲しい!とは思っている。そこそこ生きてきて、それをぜんぶ消化しようとしていると時間がまったく足らないというのも実感できてきてはいるけれど。あと、オススメではなく自分で見つけたもののほうが楽しさが増幅する(のでオススメを忌避する運用のほうがよい)という説はあって、これもわかるのだが、個人的には、誤差の範囲だ。ひとによる感じか。
新しさが好きなのか、出会いが好きなのか、というき疑問も思ったけど、出会いが新しくないことはまあないかな。でも、感覚を好んでいるか、行為を好んでいるか、というフォーカスの違いはある。

アニメ版の勇者、辞めますがなかなか面白くて続きもずっと見てしまった。想像を超えるところはあまりないのだけど、期待は裏切らない印象。原作はもっと面白いようなので気になる。アニメ版後の展開が面白い模様。文章も面白かったらよいなと期待する。

黒ノ岸シン さんがブースト

日記というより雑記めいた内容になってしまうが、まさに今日、頭の中で考えていたことなので“今日の日記”として書くことにする。自分は、読んだ本や観た映画の感想を書くときに、「何を“しない”で感想を書くか?」という点を意識している。「感想を書くときに、こういう視座に立ちたくない」とか「こういう評価軸を採用したくない」など。言い換えれば、「何を“書かない”か」を大事にしている。自分の書いてきた感想を読み返すと、「いかに自分が“書きたくない言い回し”を避けているか」について、かなり高い精度で達成できていると感じる。例えば、ホラー作品の感想でよく見かける「あまり怖くなかった。だから面白くない」という感想を自分はつまらないと思っているので、自分がホラー作品の感想を書くときには、“怖いか否か”という観点とは異なる面から作品を評することはできないかと考える。「怖いかどうかを判定するのが、ホラー作品の感想」という規範から脱したいし、他の人がやっている“評価”の方法論を自分の中にインストールすることも避けたい。作品の感想を書くときには、“評価のものさし”をいちから作り上げるのが自分の理想なのである。 #日記


2023年1月25日(水)

風は昨日よりすこし弱まった。気温はむしろ低かったが、なんとか耐えられた。耐えるという言葉からの連想だが、そういえば子どもの頃、体力と耐久力という概念の違いがわからなかった。体の強さ、くらいの目の粗い認識しか持てていなかったのだと思う。似ているところも重なるところもあれど、かなり違う、とは次第に理解した。

そういえば、という言葉を用いるのって、ちょっと反則だと感じている(この文の冒頭にもそういえばを付けようか迷った)。言葉尻を追うだけの連想ゲームになんとなく違和感や忌避感を覚えるせいだ。あんまり勢いだけであちこち飛ばれてもなあという経験的な感覚がある。ただ、飛躍しまくり文章にも楽しいものはある。ひとつひとつがしっかり深掘りされてたら楽しい(逆に、まだ聞き足りないうちに次の話にいかれるのが嫌っぽい)。流麗に話題を転換させられるのも楽しい(そういえば連発は流石に芸がない)。みたいな感じだ。

水曜日なのでマガジンを読んだ。あと、勇者辞めます、というアニメを見始めた。タイトルだけ見て気軽に見始めたが、たぶんかなり面白い。

黒ノ岸シン さんがブースト

Mastodonへの参入はずいぶん思い切ったアクションだなと当時は思ったもんだけど、他鯖との交流が生まれるたびにVivaldiの文字が出てくることを考えると、なかなか小さくない宣伝効果のような気がする

好き嫌いどちらも見かけるけど、mastodonという名称、かなり好き派だ。

黒ノ岸シン さんがブースト
黒ノ岸シン さんがブースト

「持つに値しない感情を意図的に揺さぶろうとする企てからは、身を守らなければなりません」とのこと。メディアリテラシーと総括すると途端に味気ない感じになってしまうが、言い換えるならばそうなるのだろう。

ただし、真贋を問題にしているようで、必ずしもそれだけでもなさそうであることに注意とも思う。創作物はフェイクではない。物語的な「真実」は現実ではないが、持つに値する感情を生む、と読む余地はあるだろう。

文脈から判断する限り、共感を生むような感情が、その「持つに値する感情」なのでしょう。

カズオ・イシグロ「物語には“分断”に対抗する力がある」 | ノーベル賞作家が語る「創作の意義」と「次世代への期待」 | クーリエ・ジャポン
courrier.jp/news/archives/3103

「現在のように分断された世界では、感情を揺さぶる物語を作るときに気をつけるべきことがあります。その感情を常に『真実』に結びつけることです。さらに、持つに値しない感情を意図的に揺さぶろうとする企てからは、身を守らなければなりません。そのためには、映画、本、テレビなどのコンテンツに批判的になることが求められます。」


2023年1月24日(火)

仕事で面接を2件おこなって、帰りはすこし遅くなった。大寒波が近づいてきているようだ。風も強くて、おかげで激サムだし電車も遅れているし大変だった。面接ですぐに答えられなかった質問があって反省している。上司に頼ってしまった。初歩的な質問だったので後悔もひとしおだった。改めて把握しておきたい。

読書メモ、取るようになったら、明らかに動きが鈍くなった。おっくうになっている。うーん。楽しくないわけではないんだよな(やり始めたらむしろ楽しい)。ただ初動のハードルが上がる。短時間だと、数行読んで、メモ取って、というアクションだけで終わってしまうからだろう。些細な読書をしづらく思い始めた。どうしようかな。読書量が減るのは困る。メモを取らないと決めた読書も平行して行うかな-。でもそちらばっかりになりそう。

音声配信はメモしづらい。だから記録としても残りづらくて嫌だ、と思うことも最近はあるのだけど、そこを活かし、気軽な媒体として、Podcastやオーディオブックを活かせばよい気もする。

今週はやることがけっこう多めだ。充実はしている。

黒ノ岸シン さんがブースト

BT Nature誌のSF掌編コーナーFutures、ウェブで過去分を読めます。昔は2回ほど電子書籍としてまとめが出たりもしていました。

2005年から2014年までの見やすいアーカイブ
nature.com/collections/swmfrlf

それ以降の一覧
nature.com/nature/articles?typ

途中からは新進作家の掲載が増えて、アジア系作家もよく取り上げられています。

黒ノ岸シン さんがブースト

医学書院で小川公代先生が連載している「他者理解を促すためのブックガイド」、めちゃくちゃ良いよ。難しい哲学的な主題を扱いながらも抑制の効いた書き方なので、「なるほど…」と、じっくり読み進めることができる。

igaku-shoin.co.jp/paper/series


2023年1月23日(月)

動作が先で、意識の動きは後追いだ、という話も聞く(いろいろ問題の切り分け方もあるようだが)。感情の動きにも似たところがあったりするのかなとも考える。ある出来事を思いながら嫌だなーと思うんじゃなくて、嫌だなーみたいなモヤモヤがまずあって、それに合わせるように、なにか「そういうシーン」を想像している気がする。

曖昧な認識、印象だけで、あるいは惰性で、まず感情を作りあげていて、そのあとに、それに似合う具体的なシーン、エピソードを捏造している気配だ。

というような考えを一回書こうと思って挑んでみたけど、うまく書けなかったので、書き殴るくらいの気持ちで再度シンプルに書いてみた。

言語化するときに視野が狭まってしまうのか、なんだかどんどんごちゃごちゃしていってしまうパターン、かなりある。全体像を見る余裕がないまま目の前の整理だけしていくと結局おちいってしまうやつだろう。びっくりするくらい問題意識が混線してるときあるんだよなー。因果も連想も近場にあっただけのものも順番混ぜこぜで抱えてしまっているときがある。


2023年1月22日(日)

最近また音楽を聴くようになった。すこし前まで聞かなくなっていた。Podcastも聞いているので気分で切り替えている。耳の酷使ぐあいが増したけど、そのぶん目が休めるようになっている。音楽はかなりよい。日常とか生活とかにべったり貼り付いた意識を、きれいに剥がしてくれるものとして昔から見つめている。よくいえば視野が広くなる。悪く言えば夢見心地な空想家になる。ただいまこうして書いてて明確に思ったけど、ここで、後者を「悪い」ものだとしてしまえる心性が、そもそも、現世にべったりしている感覚だよなーたぶん、と思った。

意識がこの世にべったりしてるかんじは昔からあんまり好んでない。ほんとうは広いのに狭いところに貼り付かされる感覚があるからだ。そして、言葉も、このへんにうまく作用して、よい気持ちにしてくれるところがあるな。ただ、音楽の作用と言葉の作用は一緒なのかな-。芸術の効果みたいにひとくくりにしてしまいそうになるけど、細かく見ると違うとか、プロセスは違うとか、別物だと楽しい気はする。楽しさの種類が細分化してくれるのはよい。

黒ノ岸シン さんがブースト

じみじみ進めてる洋ゲーに出てきた爬虫類人女性に胸があったんだけどいくらなんでも哺乳類としての驕りが過ぎるだろ


2023年1月21日(土)

空き時間ができてゆったり行動できる、という時間帯をいつだって待ちすぎなんだよな~。自分の人生観・習慣での問題点のかなり上位にあると最近は認識できている(でもまだ甘々なかんじ。直そうという危機感ないし。このあたりって危機感がすべてじゃんという説もあるし)。

こういう日記も、一日のあいだでの「ゆったりした時間」をただぼーっと待っていて、結局そんな時間は訪れず、慌てて書くということを繰り返している。いいかげん学んでもよいのでは?

そして、この待ちの姿勢が、仕事などでもちょっとマイナスに働いており、評価とかが下がっている可能性がある。

ただ、人生観の問題というふうに書いてはみたけど、人生全体への影響をちゃんと考えたときに、この感覚によってなんとなくゆったりできている(平和的な心境を保てている)という一面もある気はする。何事も一面では判断できない的な問題ではあるが。

Twitterが完全にサードパーティクライアントを排除して、そのやり口も悪辣だったので、だいぶ微妙な空気になった。Twitterがこのまま凋落するということでもないと思うが、依存度は極力下げたい。ひととの繋がりが切れるのも嫌だしな~。振る舞いが面倒だ。その面倒さも面倒だ~。

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