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マシュー・レイノルズ『翻訳 訳すことのストラテジー』(訳)、巻末に秋草俊一郎氏による日本オリジナルの読書ガイドがついていて、すごく面白そうな本が並んでいる。Sato Hiroakiの本が入っているのにニヤリ。

これはまるで神話のように聞こえるが、もしかしたら、魂の文学とはそういう神話に他ならないのかもしれない。それは不断に消え失せては、不断に現れる伝説であり、人間の中の永遠に治癒することのない痛みでもある。個人についていえば、魂の書き手の苦痛は、おのれの苦痛を証明できないことにある。彼は一篇また一篇の作品によってその苦痛を刷新するしかなく、それが彼の唯一の証明なのだ。こういう奇妙な方式のせいで、永遠に破られることのない憂鬱が彼ら共通の特徴となっているが、その黒く重い憂鬱こそ、まさに芸術史の長い河を流れる活水の源なのである。たゆみない個体がこうして内へ掘り進む仕事に励むとき、彼らの成果は例外なく、あの永遠の生命の河へと合流する。なぜなら歴史はもともと彼ら自身のものであったし、彼らがいたからこそ、歴史が存在し得たのだ。教科書の上の歴史と並行するこういう魂の歴史は、もっとも鋭敏な少数の個人によって書かれる。だが、その歴史との疎通し、通い合いは、すべての普通の人に起こりうる。これはもっとも普遍性を備えた歴史であって、読み手は身分、地位、人種の制限を受けない。必要なのはただ、魂の渇きだけである。」
残雪「精神の階層」近藤直子訳

「魂の文学の書き手は、後へは退けない「内へ内へ」の筆遣いで、あの神秘の王国の階層を一層また一層と開示し、人の感覚を牽引して、あの美しい見事な構造へ、あの古い混沌の内核へとわけ入り、底知れない人間性の本質目指して休みなく突進していく。およそ認識されたことは、均しく精緻な対称構造を呈するが、それはもう一度混沌を目指して突撃するためでしかない。精神に死がないように、その過程にも終わりはない。書くことも、読むことも同様である。必要なのは、解放された生命力である。人類の精神の領域に、最下層の冥府の所に、たしかにそういう長い歴史の河が存在している。深みに隠れているせいで、人が気づくのは難しいけれど。それが真の歴史となったのは、無数の先輩たちの努力が一度また一度とその河水をかきたて、何年たっても変わらずに静かに流れ続けるようにしてくれたおかげだ。(引用続く)

イ・ソンチャン『オマエラ、軍隊シッテルカ!? 疾風怒濤の入隊編』(バジリコ)。BTSのメンバーが入隊することが大ニュースになるような世界で、韓国の軍隊のことが知りたくて手に取った一冊。もと軍人の若者がキツい軍隊生活のことをセキララにネット上で綴った本書は、書籍化するとすぐに韓国ではベストセラーとなったと訳者あとがきにある。

四方田犬彦氏のすぐれた巻頭解説(という名の序文)がAll Reviewsのサイトに公開されているので、そちらを見れば本書の意義についてはある程度了解されると思う。著者イ・ソンチャンの文章は美文からはほど遠いが、自分を取り巻くすべての状況を相対化しときに嗤いときに冷静に観察する視点はやはりなにがしかの才覚がもたらすものだろう。軍隊の中にキリスト教の教会があって休日に希望者は礼拝できるなどというのはとても面白い。それからいまでもこうした文化が続いているのかはわからないけれど、軍の中にお菓子を売るキオスクがあって、甘いものに飢えた主人公とその仲間たちがロッテの「チョコパイ」や「自由時間」(後者は日本では見たことない!)に食らいつくシーンなんて矢鱈に印象にのこる。

SFマガジンでお名前を知って、ウェブで読める文章を少しずつ読ませてもらっています。自分は男性ですが、花王が美白という表現をすべての製品から取りやめるとか、そうしたニュースは知らなかったのでとてもためになります。

安原顕が編集していた頃の「マリ・クレール」の目次。これもはや、女性誌じゃないだろ!ミルハウザー「アリスは、落ちながら」の初出、筒井康隆『パプリカ』の連載、村上春樹、蓮實重彦、浅田彰、吉本隆明…。

池袋のブックギャラリーポポタムにて買ったもの。韓国や台湾やその他のインデペンデント系の作家の完全に未知の本が並んでいて、宝探しのようなひととき。原石を探したい人にとってはこのお店の書棚はわずか数メートル四方の天国かもしれない。

見識のある方(もちろんその基準は主観的なものでしかありえないけど)の翻訳のよしあしに関するコメントは、ネットには流れず、アカデメイアふくめクローズドな場で話されるだけということも多い。ある人間にとって、第二言語に訳された文章の質というものは母国語の場合よりも判断がいっそうむずかしい場合が多く、それでも日本の作品の海外普及に関心があるなら気に留めておきたいトピックであることはやっぱり間違いないとおもう。

ある日本文学研究者/翻訳家とやりとりをしていたら、大学の授業で倉橋由美子を教材として扱うことも検討したが、その作品の英訳の質から結果として択ばなかった、という趣旨の一文があった。自分はその作品がどの作品かも知らないし、よって日本語と英訳をくらべたこともない。ただ、ふと以下のようなことが思い出された。

一.自分の大学時代の文学の授業の先生は、白鯨を読むなら誰それの訳より誰それで読まないといけないとか、ディキンスンの詩を読むならどこどこの出版社のものがおすすめだとか、教室でしばしば語ってくれる先生だった。学生になんの期待もしていなかったら、わざわざエネルギーを費やしてそんなことには触れないだろう。

一、これも大学時代の話。毎年東京で行われるある文芸のマニアックなイベントは、「合宿」といって旅館を借りたりして、ファンとプロが会して夜通し小説の話がくりひろげられるような場だった(もちろんコロナ前のこと)。そういう場にいると、信頼できる翻訳家の方からの、これまたあの作品には翻訳に問題があるとか、ある時期以降の野口幸夫の訳は、とかそういう話が耳に流れ込んでくる。(つづく)

さっぱりしたものが食べたくて、夜に冷麺。盛りつけはネットで見たソウルのお店のを参考にしている(料理人は北朝鮮出身とのこと)。余ったパプリカは、翌日にcookdoのソースでチンジャオロース♪

「SFマガジン」10月号、「大学SF研座談会」。この記事を読んで、「表れかたはその時代その時代で移ろってゆくけど、根っこの部分はいっしょだね」という感想を抱く方もいると思う(例、はじめに青背からとかではなくサブカルチャーがきっかけになりやすいとか)。自分なんかも高校の頃それこそ『げんしけん』とか、『菫画法』『イリヤの空、UFOの夏』などの文化部もの(あるいはそういう要素を含む作品)に触れて文芸サークルへの羨望をふくらませていた。ただ、個人的にはパンデミックが不可避的に変えてしまった側面のほうに意識がどうしても向いてしまう。変化にとりわけ恵まれている時代にあっては、自分より年下の世代に関する情報は収集できるならそうしたい。

アニメ映画、「アリスとテレスのまぼろし工場」。独特の色気を湛えたユニークな作品として、わたしは買います。中学生の自分がどういう感情や不安定さを抱えながら生きていたか、いい意味で思い出させられたりもしました。白痴的二次元美少女の嘘くささを逆手に取りつつ、現代日本の地方の過疎化を直接に反映した廃墟美のなかで物語を推進させるのも個人的には興味深いです。学校の教室や廊下に貼られた標語やポスターにみちる純度100パーセントのクリシェや、一部秩父をモデルにしたとおぼしきシャッター街―ついぞ経験したことのない高度経済成長を遥か遠くに望む―を執拗に、風景のように描き込むスタイルにもなにかしら倒錯したものが感じられます。

垂野創一郎さんが、私の好きな雑誌『魔王』2号について記事を書いている…。この号は女性シュルレアリスト、ネリー・カプランの短篇を何篇も収録している上に、各種論考もとても良くて、探す価値があると思います。puhipuhi.hatenablog.com/entry/

雪華社で渡邉一考が編集した本って、どこかにリスティングしているサイトってないのかな。コーベブックスの頃と同じマークが表紙にあしらわれているのが目印はなるのですが。岩崎力『ヴァルボワまで』所収の、ユルスナール訪問記は素晴らしい文章。ルネ・クルヴェル『ぼくの肉体とぼく』は購入してますが未読。メーテルリンク『温室』は読んだけど残念ながらあまり印象に残っていません。

2017年に行われたハーバード大学のGirl Culture, Media, and Japanという授業では、一年を通しての教科書ではなかったものの、森奈津子の怪笑SF「西城秀樹のおかげです」がレファレンスとして取り上げられたようです。私たちの知らない所で日本SFの花は咲いている?!
air-tale.hateblo.jp/entry/2022

以下は翻訳ではなく、自分による文章: If a writer, an athlete, or a politician is a woman, she tends to be called "female writer" and so forth. Meanwhile, if a person of those occupations is a man, he is almost never called "male writer"etc. I’ve just translated one novelist’s word which discusses this strange yet seemingly universal phenomenon in her own unique way.

倉橋由美子の言葉を試訳。Just as people are not aware that numbers which they deal with in their daily lives have the plus sign, they are not aware of the sign of men, the sign of sex which the world assumes. (…)Women are being shut away in the world of minus, the antiworld inside our world. --Yumiko Kurahashi

In some science fiction stories, women are no different from dolls, only props serving the narrative itself. In a specific sub-genre of science fiction called gender SF, by contrast,  writers clearly aim to make the reader reconsider gender bias that  people in the modern society have. The genre of science fiction as a whole would be described generous in that sense―precisely opposite attitudes toward femaleness coexist together.

テッド・チャンが好意的に言及しているアニー・ディラード、ジョン・クロウリー、スティーブン・ピンカーなどはみな自分にとっては現代アメリカで気になる書き手なのですが、アニー・ディラードの著作、心から訳されてほしい。レベッカ・ソルニットを読むまでもなく、小説だけが文学ではない。

forbesjapan.com/articles/detai
アイヌ文化紹介Youtuberの関根摩耶へのインタビューより。

「例えば、子どもが水をこぼした時、日本語では単に叱ったり、「あらあら」と思うだけでしょうが、アイヌ語だと「そこに水が飲みたい神様がいたんだね」と表現するんです。あらゆる事象を人間ではなく神の意思だと考える価値観が表れています。

狩猟にしても、日本語では「動物を矢で射る」と表現しますが、アイヌ語では「正しい人間には動物側から矢に当たる」と表現します。アイヌの考え方では、神と人間は対等かつ取引関係にあると考えられています。神は神の世界では人間と同じ姿をしていて、人間界に来るときに毛皮などのお土産を持ってやってくる。そして正しい人間のもとに(矢に当たる)ことで行き、そこで盛大にもてなされて人間からもらったプレゼントをもって神の世界に帰る。というような物々交換と考えられています。」

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