私は「翻訳しやすさ」みたいなものも懐疑的です。翻訳は助詞の使い方や語感を削って「意味」になり、「意義深さ」になるのです……。そういうのは、私は、好きではないです……。
…というようなことをBlueskyで書いたら、やっぱりRP先で「それにしても旧ツイッターでの雑なけなし方はひどい」とか「思い入れはないけどあれだけの作家なのだから敬意は持つべきでは」とかぐちゃぐちゃ言われていた。
SNSのつぶやきなんて大多数はせいぜい「個人の感想」でしかないし、まして広く世に公開されて(かつ一定の支持を得ている)作品に対して「私はキモいと思いました」ぐらい言わせてくれよ…と思っちゃうんだけど、旧ツイッターでは「何かを批評するのに『キモい』などという語を使うのは云々」みたいなことまで言い出されてるし、有名作家のアカウントがやたらと「小説家なんてみんなキモいよ」とかそれこそ雑なこと言ってるし…
いやもうこの状況がキモい。なんなんだ、「春樹キモい」っていう感想はそんなにタブーなんですか?ごめんけど村上春樹の女性の描写はふつうにほんとうにキモいです。
そしてこんなこと言ってるけど、私も『東京奇譚集』とかはかなり好きですよ。村上春樹、圧倒的に短編のほうがいいと思うんだが、長編のほうが売れてるっぽい不思議…
村上春樹については、『ノルウェーの森』は中学生のときに読んで、面白かったです。友達が『パン屋襲撃』を薦めてくれて、それも面白かった。『1Q84』は、過程は楽しんだけれど、ラストは乗れなかった。
それくらいですかね。何か深々としたものを得たという読書体験はないです。こなれた文体だなとは思いますが、続けて読みたいような作家じゃなかった。
ある作家の作品に乗れなかったと表明したら、「全部読んでから言え!!」みたいなファンがいて、怖いなと思いました。
松本たかし『石魂』、読了。
夢に舞ふ能美しや冬籠
一円に一引く注連の茅の輪かな
箱庭の人に大きな露の玉
鎌倉の空紫に花月夜
眼にあてて海が透くなり桜貝
といった、いかにもたかしらしい雅な美感がある句も良いが、小品も愛らしい句が多い。
我が門の花に馬車止め訪ふは誰
花一木あり人これを四方より
別棟へ一人寝にゆく月見草
噴霧器の長き管這ふ薔薇の中
星涼し道に聞こゆる旅芝居
書を買ひて暫く貧し虫の秋
ただ、戦後は筆の衰えを少し感じた。たかしと言えば、茅舎とともに比喩が見所なのだが、戦後の比喩や擬人化には冴えがなく、やや読みづらかった。
『現代俳句大系 第九巻』も残すところ1/4というところ。
岡野八代『フェミニズムの政治学―― ケアの倫理をグローバル社会へ』(みすず書房、2012)、思い出に残る良い本だったな……。いつか再読したい……。
リベラリズムは近代の資本主義社会をそのオリジンに持つので、農村的なもの、田舎っぽい停滞も嫌う。進歩がないもの、変化がないものを嫌がるのだ。快楽という見返りすらない近所付き合いや、ネットワークとも呼ばれるしがらみも嫌悪の対象だ。だが、ここで重要なのはこれらは生命の維持には不可欠であるということだ。食料が生産されなければ当然だが人は生きられない。無限に改善し、増強することは環境破壊につながる。誰かの必要にケアという形で応える人がいなければ社会は維持されない。そうした行為を嫌い、おこないたがらないというのはリベラルたちが他者を搾取しつつ自らの営為を行なおうとしていることを示唆する。「人は生命の維持などに労力を費やすことを強制されず、また他の人の生命の維持にも力を使わず、ただ崇高なことをなす権利を保障されるべきだ」ということを示唆したのはアーレントだが(『人間の条件』)、それはまさにリベラリズムの要約であるといえよう。新中間層の職業人たちは家事や育児やケアなどの仕事を嫌う傾向にもあるのだが、それはおそらく「女性的なもの」への嫌悪にもつながる。単純に嫌いなのではない。支配し、搾取したいのだ。
俳人・岡田一実。俳句とか考えごととか。美味しかった話とか、読んだ本の記録とか、香水(主に量り売り)とか、旅のこととかいろいろ揺らぎつつ。幻聴があり、人生はだいたい徐行。リブ返しはちょっと苦手。体調によっては返せません。
HAIKU,for its own sake. she/they
句集に『境界ーborderー』(2014)、『新装丁版 小鳥』(2015)、『記憶における沼とその他の在処』(2018) 、『光聴』(2021)、『醒睡』(2024)。単著に『篠原梵の百句』(2024)。