結婚はいつしてもいいし、もちろんしなくてもいい。結婚しても子供を産まなくてもいい。養子で迎えてもいい。婚姻状態でなくても子供をひとりで育てられる社会がいい。異性間でなくても子供を産む、また育てる支援があるべき。ていうか誰もが結婚できる制度にしろ。(私は結婚制度やめようよって思ってるけど、それは差別を撤廃して権利を保障して、国が殴り続けた人たちに謝ってからだろと思ってる)
教育を受けさせられるくらいの金銭的余裕がある状態で結婚して、結婚した状態で子供を産んで、結婚した状態のまま育てる、以外の枠にいる人たちは、今現在確実に社会から何らかの圧を受けていると思う。そして枠に当てはまる人たちも、全くもって優遇なんざされていない。全員がつらいのに分断は頻繁に煽られる。こんな地獄で「少子化」の原因はこっちにあるという。ふざけないで。
「本当」とはどういうことか
村上春樹の小説『1Q84』の中で、ふかえりという少女が「ほんとうというのはどういうこと」といいます。今は記憶で話しているので正確ではありません。
このセリフは時々思い出して、なかなか深いことを語っているなと思います。
マジックリアリズムの手法で、普通の日常のように見えているのに、次第にそうではない現象が起きてくる様子が描かれています。それを読んでいると確かに「本当」とはどういうことだろうと思わざるをえません。
常識を疑うとか、自分の目を疑うというのはしばしば語られますけれど、それを厳密に実行するというのは難しいことだと思います。ちょっとした発想の転換ぐらいならば、そんなに難しい話ではありませんけれど、厳密に深く様々なことを疑い出すと、自分自身の足元が揺らいでくる危険性があるからです。
しっかりと歩んでいくためには、自分の足元が揺らいでいるときであっても、しっかり判断を行って進む必要があるでしょう。それと同時に、足元が危ういのであればもっとしっかりした足場を築くことも必要でしょう。
そこにもやはり必ずバランスというものが必要になってくると思います。
つまりそれは、小さいことに目を止めるのか、大きいことに目を止めるか、そのバランスでもありますし、足を踏みしめて同じところに留まり続けるのか、それとも思い切って足を踏み出すのかというバランスでもあります。
「いつもこうやっているから、次も同じようにする」というのは1つの見識ではありますが、それでいいのか。「いつも同じようにやっているから、次は違うようにすべきだ」というのも1つの見識ではありますが、それでいいのか。
どちらの考え方も、「いつもと同じか違うか」を大きな判断基準としているという意味で、とても偏った考え方だと言えるでしょう。
2つの間のバランスを取ろうとすることは悪くはありませんけれど、その2つのものの選択がそもそも偏っている可能性があるという意味です。
厳密に、しっかりと、真面目に、きちんと…のような表現で、私たちは自分の行動を的確にコントロールしようとしますけれど、しょせん限界のある人間が考えることですから「本当に」何が正しいことなのかはなかなかわからないものです。
ある人はよく考えろと言い、別の人は考えるな感じろという。しかし、そのどちらも自分を基準にしているという意味では、同じ穴のムジナです。
かといって、無数にある選択肢と無数にある判断基準を全て考慮することは、なおさら人間には不可能です。
ですから、ときには思い切った省略を行って「今のところはこの2つの選択肢で考える」とするのが妥当なところなのでしょう。
しかしその場合であっても、あくまでその目の前にある選択肢は、限りのある人間、限りのある自分がたまたま目の前に置いた2つであるということは、心の隅に留めておく必要がありそうです。
C.S.ルイスが小説のどこかで書いていた「意味はいつでも無数にある」という言葉を思い出します。これもまた、記憶で話しているので間違っているかもしれませんけれど。
朝の散歩をしながら、そんなことを考えていました。
マストドンに来た理由を書いておく
きっかけは、Twitter で親しくさせていただいていた方が突然ロックされたこと。こっちのアカウントを知っていたから事情が分かり、断定はできないものの、イーロン・マスクがジャーナリストのアカウントをロックしたのに巻き込まれたらしかった。
まるで「隣人が特高に連れていかれるのを見てしまったのに、カーテンの隙間で息をひそめて見てただけの人」の役をふられたみたいで。
国内の報道も言論界も事の重大性は分かっていないように見え、人知れず消されちゃった感が恐ろしいし、これがあからさまに行われるようになったらなったで、きっと口をつぐむであろう自分の弱さと無力さを思い知らされて、ぺしゃんこになった。ほんの少しの実力行使で、簡単に口はふさがれる。
かの人の庭で何を言っても空々しいとTwitterから逃げ出してみたら、組み込まれていた世界の異常さは明らかだった。あれはパチンコと同種のものだ。人をくるわす。
くるいはじめたこの国がこれからどこまで落ちていこうと、きっとわたしは逃げ出せない。二度とこんな思いをしないために、抵抗できる限り抵抗するし、その手段を(誰かと)模索し続けたいと思う。
日本は低欲望社会だと言われるけど、大前研一の言い出したことなので、それはあくまでも資本主義的、マテリアリスティックな欲望の話であって、「集団に同化しない他人をコントロールしたい」という欲望、もっと正確に言えば、「思考パターンが横並びで均質な社会を構築することで偽りの安心を得たい」という前時代的な欲望に関しては、稀に見る強欲社会なんじゃないだろうか。
まあ、大量生産される規格品的な構成員ばかりなら楽だよね。軋轢もなくなるし、個人単位で思考する労力はほぼ不要になるし。政府がやらなくても、市民が自主的に「調和を乱す不届者」を粛清し、自由意志で全体主義を選んでくれる。
その社会では、価値判断基準が「和が乱れるかどうか」だけなので、「何を言ったか」とか、「人権」とか「正義」とかですらなく、あくまでも「そいつは集団側か、それとも出る杭か」で判断される。
「無自覚なマジョリティ」ではなくて、「無自覚な全体主義」。たとえマジョリティであっても、個人はどこまでも疎かにされる。
小学校1年生までスカートめくりされていた。映像が浮かぶ。たぶんそのあと学校で強く禁止されたんだろう。永井先生発祥だったのか。
しお(汐街コナ)
@sodium
「スカートめくりを、たいして悪くない子供の悪戯として描くことが許される社会」は「スカートめくりなんてたいした悪いことではない社会」であり、「たいして悪いことじゃないんだから、被害者が我慢するのが当たり前の社会」なんですよ。
表現と社会の価値観は連動しています。
https://twitter.com/sodium/status/1613035964515123200
歪みとつきあう
あるトゥートが複数回BTされてきた。きっと多くの人が賛同する意見なんだろう。
たしかに大意に異論はないのだけど、[バカ] とか [頭悪い] とかのフレーズがあると、この人が [バカ] と括っているほうに自分が含まれるのではないかという不安にかられて、とたんに主旨が見えなくなる。
その話題については、おそらくわたしの鏡が歪んでいて、言葉や事象をあるがままに映さないのだろうという自覚はあるけど、どうしようもなく感情は振り回されて、この人はきっとわたしのようには歪んでいないんだろうなとうらやむしかない。
歪んでいない人がまぶしく見えたり、恨めしいと思ったりする感情を、他者にいいように操られてしまうのを、[頭が悪い] からだと言ってしまいたくなる気持ちは分からないでもない。わたしの中にもたしかにある。だけどそれを口に出しても、いいように操っている側に手を貸す行為でしかないように思う。頭が悪い側の甘えだろうか。
と、ここまで言語化してもう一度初めのトゥートを読むと、やっと抵抗感が薄れているのを感じる。この繰り返し。もはや修行じみている。
» ノーベル平和賞のマリア・レッサの警告「偽情報と戦わなければ、民主主義はまもなく敗北する」 | クーリエ・ジャポン
https://courrier.jp/news/archives/312341/
"根底にあるのは、「事実よりも嘘のほうがおもしろい」という本質的な真理なのだとレッサは論じている。
理解不能な選挙結果が現実になり、有権者は明らかにめちゃくちゃな候補者になびき、その結果が未来の出来事へと影響する。具体的には、トランプの勝利がロー対ウェイド判決の転覆につながり、ブレクジットがリズ・トラスにつながるように、それまでまともだった国がたちまち機能不全に陥ってしまう──。
そのような事態を私たちがいま、目の当たりにしているのは、「オンラインで起こることは現実世界で起こるから」であるとレッサは考える。「オンラインでまかり通ってしまうことは、オフラインでもまかり通ってしまう」のだと。"
みつを_Mitsuwo
@ura5ch3wo
若く困難な状況にある女性を助ける小さな団体の話じゃないかと思うかもしれないが、このマスメディアの沈黙は、確実にファシズムとの一体化と考えるべきだ。
あなたが明日、暇アノンのような極右のナチスみたいなトロールにターゲットにされた時、社会の有力者は助けてくれない。報道も無視する。
https://twitter.com/ura5ch3wo/status/1610799325797580800?t=0musbnqafz31BbVN2S2s1A&s=19
「電子書籍で失敗しAmazonに惨敗した老舗書店チェーンがリアル書店で売上を好転させた方法」
米書店チェーンのバーンズ&ノーブルを、書店再生の実績あるやり手CEOがてこ入れしている話。各店舗に選書の裁量を与えたり、雑貨やおもちゃではなく本の販売に注力したりとか。
GIGAZINEによるWhat Can We Learn from Barnes & Noble's Surprising Turnaround? by Ted Gioiaの抄訳でした。前段がごっそり無かったりするので、原文と併せて読むべきだと思います。
https://gigazine.net/news/20230105-barnes-and-nobles-turnaround/
原文
https://www.honest-broker.com/p/what-can-we-learn-from-barnes-and
@pica_pica
「オーストラリアにアボリジニ問題など存在しない。あるのは白人問題だ」と昔のオーストラリア首相ゴフ・ホイットラムは言いましたが、結局はマジョリティ「が」問題なんですよね。