伊与原新『月まで3キロ』

shinchosha.co.jp/book/120762/

件の道路標識、地元にあるので何度か通りかかったことがあるのだが、自分も初めて実物を見た時はつい「うわぁ」と浮かれた声を出してしまったので、作者が題材にしたくなった気持ちはよく分かる。ちなみに周囲はただの山。景色は良い。

普通の人たちが普通に悩み苦しみつつ、普通に生きていく話。大事件は起こらないが、ごくありふれた景色の中の営みに謎があり、それが徐々に明らかになっていく。謎の引っ張り方が上手くてするする読めるし、読後感は爽やかで軽い。

『天王寺ハイエイタス』が特に良かった。作者は地学を研究していたそうで、他の短編でも地学ネタが重要なモチーフとして出てくるが、この短編のタイトルにある地学用語の「ハイエイタス」の意味が分かると、イメージがパッと開けるのが爽快。関西弁の会話のリズムも快い。

今日会った友人の文学者たちが、「全く異なる物語どうしをシームレスに繋ぐ文学手法」の話と、「解釈されることを拒否し、単なる現象として物語に組み込まれる不可思議を書きたい」という話をしているのを聞いていたんだけど、山尾悠子の『飛ぶ孔雀』は、その両方に当てはまる作品では…?

好きな漫画が実写ドラマ化するようなんだが、煽り文句と放送枠からして嫌な予感しかしない。

今日の『光る君へ』
まひろに物語が降りてきた瞬間に舞い落ちる無数の紙の美しさ、あらゆる創作者への祝福のように感じられて、とても良かった。

アンナ・カヴァン『眠りの館』

bunyu-sha.jp/books/detail_nemu

キャンバスに絶えず油絵の具が塗り付けられ、刻一刻と画面が変化する。絵が浮かび上がってきたかと思うと、全く違う色彩が上からぶちまけられ、先ほどまで見えていたはずの絵が別の絵に上描きされていく。絵が変わるたびにタッチも変わる。よく見ると共通の画題があるようだが、朧げなそれが何かはわからない。絵の具は厚く重ねられて層を為し、横から見ると何か別の絵画のように見える、という感じの、小説のような散文のような不思議な連作。

「普通」に馴染めず苦しみながら成長していく少女の一人語り(昼)と、荒唐無稽で奔放でイメージ豊かな文字通りの夢(夜)の世界が交互に描かれる。昼夜どちらにも「母と娘」がおり、母はどこか冷たく、娘は不安に苛まれている。この母娘には作者自身が投影されているようだが、母娘の周囲を駆け回る夢がカラフルでやかましいぶん、彼女らのセピア色の孤独が際立つ。

目まぐるしく変化する「夜」の中には、印象派やあるいはデ・キリコの絵の中に飛び込んだような世界があり、なんと『源氏物語』もある。そして、そこかしこに戦争が登場する(出版は第二次大戦直後)。昼の「明るい」世界とは、戦火に照らされた世界でもあるのかもしれない。

ガブリエル・ガルシア=マルケス『百年の孤独』

shinchosha.co.jp/book/205212/

「百年の孤独」とは誰のものなのかと考えながら読んでいたが、物語の人物たちはみな孤独を抱えていて、なんなら物語の舞台である、他の町とどこか隔絶した雰囲気があり、最初から終わりを示唆されているマコンドという町も孤独そのものに見える。

死者が闊歩し、錬金術や魔術、非科学的な出来事が頻出するわりに、不思議と地に足のついた感じがする。これがマジックリアリズムか…。表現手法の成果でもあるが、浮世離れした男たちに対し、生活を守る女、特に「母」たちの堅実さや芯のある強さが印象に残っているせいもあるかと思う。物語内の数多のエピソードは作者自身が体験したり祖父母などから伝え聞いた実話をもとにしているらしく、どことなくルポルタージュっぽさもある(そういえば「ガブリエル・マルケス」という人物が登場するのは、現実と非現実の曖昧さを狙った遊び心だろうか)。

クライマックスの数ページが凄い。最後のシーンを読み終わった瞬間、ページが白紙になったような錯覚すら覚えた。血(暴力と性)で描かれた濃密な百年の歴史の物語だというのに、なんと儚いことだろう。

ブレイディみかこ『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー 2』

shinchosha.co.jp/book/352682/

イギリスは未来の日本の姿という言説を見かけたことがあるが、この本を読んで、それがちょっと現実味を帯びた気がする。1作目ではどちらかというと、息子さんの成長や、日英の差異を著者やその周囲の人たちがどう捉えているか、といったパーソナルな部分が印象に残っていて、社会状況についてはさほどピンと来ていなかった(イギリスも日本と大して変わらないものを抱えているのだな、と思ったくらい)。社会から弱者が排除される構造にシフトしつつあるのは、日英だけではないかもしれないが。

ただ羨ましいのは、自分の生活と政治が地続きであるという意識が日本より強いように思われたこと。

息子さんが学校で、社会問題について議論したりスピーチしたりするために新聞やネットの記事を読んでいる場面があった。子どもも社会の成員であると意識できるような教育がなされているということだろう。大人も子供も、自分の考えで選挙で投票する政党を決められる、そういう社会のあり方が羨ましい。

それにしても、まだローティーンの息子さんが、非常に冷静かつ公平にものを見聞きし、深く思索していることに驚かざるを得ない…

病んでて収入もあまりなかった頃に出た本を今頃読みたくなり、検索したら絶版でプレミアついてやんの…

伊藤孝『日本列島はすごい 水・森林・黄金を生んだ大地』

chuko.co.jp/shinsho/2024/04/10

「〜はすごい」というタイトルを見るたびに、そこはかとなく気恥ずかしさを覚える。しかし今のところ、本書を含めて数冊、タイトル「すごい」の新書(主に自然科学系)を読んだが、だいたいハズレがなかった。むしろタイトルで損してないか。まあ、読み通してみると確かに「日本列島ってなんか奇跡的な偶然がいろいろ重なってできてる凄い土地だな?」と思ったので、看板に偽りなしといえばそうなのだが。

読む『ブラタモリ』という趣きの本で面白かった。専門的な話や図表も多いのでちょいちょい流し読みしたが、文章自体はわりと分かりやすいし、文学作品や歴史エピソードを引いての解説は、文系にも親しみやすい。

たとえば、松尾芭蕉の『おくのほそ道』は、東北の地質の特徴をよく捉えていると。名句『閑さや岩にしみ入る蝉の声』、多孔質の岩に音がスポンジのように吸収されるために音が響きにくいのを、「しみ入る」と表現したのは俳聖の慧眼だ、という。

読んでいると実際にその場所を歩いて色々見てみたくなる。旅心をくすぐられる危険な本である。

7月、同時進行で数冊チマチマと読んではいたが、1冊も読みきれなかった。しかも読んだというより眺めていたに近く、内容が頭に入ってない。

自家用車で移動していると隙間時間があまりないので、読書をするために電車に乗ろうかなと思う時がある。実際にそれをやるとほぼ確実に寝落ちする(結局読書は進まない)

山尾悠子『初夏ものがたり』

chikumashobo.co.jp/product/978

物語の中には、ずっと水の気配がある。雨、海、花、涙、血脈。四つの連作をつなぐ「タキ氏」にも、静かな水面のような雰囲気がある。湿気を含んだ、しかしまだ冷たさも残る移り変わりの時期である「初夏」の空気が、確かにこの物語によく似合う。

初期の作品、しかも少女向けとのことで、『飛ぶ孔雀』など最近の作品と比べるとするする読みやすく、読後感はサラッとしている。下手な作品ならお涙頂戴もしくはホラーになりかねない設定だが、そこに「タキ氏」という謎のビジネスマンを絡ませることで、ドライなおかしみが生まれているように思う(アガサ・クリスティ作品に出てくる「クィン氏」がモデルだそうだが、自分が連想したのは『笑ゥせぇるすまん』)

三話めの『通夜の客』が一番美しく、奥行きも感じられて好き。

ちなみに印刷関連業者として地味に感心したのは、フルカラー挿画が何枚かはさまれているが、本文用紙と同じ紙で裏写りもなく色鮮やかに印刷されているところ…(これまでには挿画のページだけ違う紙で刷られている文庫しか見たことがなかったので…)

小島瓔禮『猫の王 猫伝承とその源流』

store.kadokawa.co.jp/shop/g/g3

猫様の下僕(猫飼い)としては、猫がひどい目に遭う話が多くてしばしば胸苦しさを覚えていたが、それはともかく。

猫は長く人に飼われてきた動物ながら、他の家畜のように(名目上は鼠取りの役割を与えられるが)人に使役されるわけでもなく、ミステリアスな部分が多いことから「魔物」のイメージが強い。それらは昔からある蛇や狐、狼など他の動物や、鬼、妖怪の伝承と習合してきた節もあるが、しばしば人に害を為すものとして民話や伝承に登場する。その伝承には世界に共通するいくつかの型があり、時代や文化に応じて形を変えながら伝播した形跡があるという。

多くが「ばけもの」としての猫の話だが、招き猫で有名な豪徳寺の由緒譚など、人里の中では猫は人に恩を尽くすのに、農村など野生と距離が近い地域では恩など知らないとでも言わんばかりに、人に対して非道なように感じられるのは面白い。

個人的に、中国の少数民族には猫(虎)を先祖の姿と見て非常に大事にする人々がおり、死後は猫に生まれ変わることを願うという微笑ましい話が好き。

レ・ファニュ『カーミラ』

kotensinyaku.jp/books/book389/

人間の業の深さにぞっとするような怪異譚から、民話のようなちょっと滑稽な話まで、思ったよりバラエティに富んだ短編集だった。

収録作の多くは、語り手が魔物に襲われた当事者ではなく傍観者あるいは伝聞者であるという怪談のよくあるパターンで、読み手(自分)と怪異との距離があるぶん、そこまで身に迫る感じでもなかった。

一方、表題作は語り手が被害者でもあるため、比較的生々しく感じる描写が多かった。悲劇の始まりである月の夜の描写が特に印象的だが、情景描写がなかなか美しく、また性愛的なシーンの描写も緻密で、恐ろしさより耽美性が際立っている。

非科学的なものを一笑に付すような合理的な人物が出てくるわりに、最終的にはキリスト教の司祭や牧師に助けを求めるあたりとか、19世紀末ならではの神秘と科学がごちゃ混ぜな価値観が見えるのも面白い。精神分析学はまだ登場していない頃だが、フロイトっぽさをちょっと感じる。

シャーリイ・ジャクスン『ずっとお城で暮らしてる』

tsogen.co.jp/np/isbn/978448858

読み始めて、民俗学でいう「憑きもの筋」の話だと思った。急に豊かになった者や他所から来た富裕者を、不正な手段(家につく妖狐)を使って他者から富を掠め取った卑怯者だと考え村八分にしたというもの。そこにあるのは富に対する嫉妬や羨望から生じた歪んだ悪意で、「憑きもの筋」とされた人たちより、そう呼ぶ人々のほうが何かに「憑かれ」ているようだ。

村内で孤立している姉妹とその伯父は、それ以外の家族が毒殺された大きな邸宅に住み続け、それなりに秩序を保って平穏に暮らしていた。しかし従兄の「侵入」により秩序は崩壊し、やがてカタストロフに向かう。クライマックスの悪意の暴走は、人間の描き方としてかなり醜悪だと思った。

語り手である主人公は年齢の割に行動も思考も幼稚だが、単に「独特なパーソナリティ(そういえば、こういうタイプが「狐憑き」と呼ばれることもある)」というだけではないことが明らかになってくる。

『恐怖小説』と銘打たれているが、自分はディスコミニュケーションの悲哀や、「ないもの」とされがちな存在への憐憫を強く感じた。

吉見義明『草の根のファシズム』

iwanami.co.jp/book/b611144.htm

「徴発」という言葉が頻繁に出てくる。徴兵と同じく「国のためならやむを得ない」というニュアンスを持っているが、物資や人員を提供させるのが中国やフィリピンの人々であれば、それは明らかに略奪である。そしてその略奪を行なっていたのは、ごく普通の善良な日本人であった一般の兵士や移住民であった。だいたいは、略奪者自身が困窮していたために略奪を正当化している。追い詰められていたのだから略奪行為そのものは責めきれないが、そこに帝国主義ゆえの他国への見下しや差別があったことは見逃せない。天皇という責任者を戴くことで、国民個々の加害性が曖昧になってしまったために、戦後も十分な自省のできないまま今に至っているように感じてしまう。

ファシズムの本質は「強制的同質化」であるという。本心では納得のいかない非道なことを拒否できない板挟みの苦しさを、自己正当化して忘れようとした心理は理解できる。が、そのメカニズムを知り得た現代の我々は、人間として真っ当であり続けるため、均質化の流れに抗わねばならない。

昨今の世情を見ても、日本人は殊に正常性バイアスの強い国民だとわかる。それはつくづく全体主義と親和性が高いことを忘れずにおきたい。

林俊雄『スキタイと匈奴 遊牧の文明』
bookclub.kodansha.co.jp/produc

ミカエル・ロストフツェフ『隊商都市』
chikumashobo.co.jp/product/978

香山陽坪『砂漠と草原の遺宝』
bookclub.kodansha.co.jp/produc

中近東〜アジアの移動型民族の歴史をざっくり知りたいと思い。あまり馴染みのない文化なので興味深いが、初出が古めの本ばかりだったのもあって読むのが大変だった。ほぼ斜め読みであまり頭に入ってない(´ー`)

古代文明や遺跡の発見や研究には欧米の学者や冒険者がかなり貢献をしているが、それは同時にその土地から遺物を略奪する側面もあったことを改めて思う。高度な金細工の技術で知られるスキタイの墳墓には、貴金属がほとんど残っていないことが多いという。大抵は盗掘のせいだが、盗まれた一部はヨーロッパに持ち込まれ、鋳潰され新たに金細工の装飾品となり流通したという話に文化の蹂躙を感じた。

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