『アンデス、ふたりぼっち』は本当に「ふたりだけ」の度合いがすごくてびっくり。ボリビアの『UTAMA』を思い出さずには居られない話なのだが、あちらは「男衆」「女衆」がある世界だったが、それがないからかどちらもえらそうなところ、保護すべき対象としているところが全然ないのが興味ぶかかった。
そして生活のハードモードがすぎて二度びっくり。序盤ヒョイヒョイッと顔を出すリャマかわいいねー、などと見つつもこれはどんどん大変なことになってく話だろう、とわかっていたが、さすがにちょっと想像できないレベルだった。
5000メートルを超える高地で撮影している自然の凄さもさることながら、とにかくこれはおじいさんおばあさん、そして動物をひたすらに見ていればいい、そういう映画。佇まいの素晴らしさ、不思議な儀式の動き、唱えられる祈りの言葉。
演技としてはあまりにも朴訥とした「台詞を喋っている」感の強いぎこちない言葉の感じ(当然アイマラ語がわかるわけではないのですが、聞き慣れた「感情の乗った」リズムの言葉は語られない、と一言めからわかる)に「大丈夫かね」という気持ちになったが、いや違うのだ、これはこの人たちはこのように実際語るのであろう、とわかった(実際はわからないけど、映画としてはそれでいいのだ、って感じね)
『赤い影』はうっすらフラッシュバック/フォワードの映画だということは知っていて(実際画面設計が極めてノーランの元ネタ的な…と思ってたらやっぱりそうなのねhttps://ohtabookstand.com/2020/12/8040000-3/)、しかしなんかそれどころではないただならなさみたいなものがあった。こういうミスリードの方法は英国で流行っていたのだろうか(別の映画を思い出しながら)。異国という甘美な恐怖。
既にネタバレ云々ではない映画だとは思うのだが、運良く?詳しいことを知らなくて、素直に「そういう話だったのねー」となれてよかったです。この時代のドナルド・サザーランドは美しい獅子のような風貌で、古都の美観に負けないダイナミックな身体と圧倒的に強い顔。そこがいちばんの目眩ましポイントになってるのが面白いなーと。
全体にただただ思わせぶりといえばそれまでなのだけど、とにかく冒頭のカットバックの矢継ぎ早が異様すぎて目を見張ったし、熱烈なセックス描写(これも有名ね)の編集のリズムも、後半に教会で起きる事態のカメラワークもすごい独特で見てて楽しい。なんか全部が不自然なんだけど、不自然すぎて自然に見えてくる。なぜか人が歩いてなさすぎる歩道とか人形を拾うとか、やりすぎなんだけど、でもなんかいいの。
『ジョージア、白い橋のカフェで逢いましょう』は含み笑いでできているような、超ロマンティックにキラキラした映画で、全体的に謎なことはなにもないけど謎なことしかなくて、大変かわいかった。
ガーマルチョバ!って私もそのへんのひとに挨拶したくなる。誰も泣かない、誰も怒らない。人がそこに在るように道があり、橋があり、結構な荒波の川が流れてて、ロープウェーがわたってて、犬が居て、鉄棒があって、カフェでは合唱が始まり、サッカーボールが転がっている。ギオルギの部屋の下に集まったこどもたちがわやわやー!としながら走っていくときにエイヤッて側転する子がいるのとか、画面の端から現れた犬がトトトト…と逆方向に向かっていくのとか、なんかもうリズム的に気持ちいいんですよ。
「誰だお前は」な語り(監督)も大真面目な声でよろしい。あまりにも「なんだこれ」が繰り返されるのに笑ってしまって、相手の姿がわからないふたり、などは関係なく進んでいくあちこちの画面の豊かさにずっとふわふわ酔っぱらって散歩してるような気持ちよさがあった。と思ってたら最後めちゃくちゃいい終わり方。ここにはそういう話があるんですよ、ここまで見てきた人にはわかるでしょう、教訓もなければオチもない不思議なだけのお話が、でも幸せな余韻とともに終わる場所だって
先日から映画って自由なんだなー、という映画ばかり見ていたので、今オーソドックスなの見たらむしろ新鮮に感じそう。自由だなー!の自由の方向が全部バラバラなのでちょっと混乱している。
(ワイヤーがうっすら見えている)2羽の蝶々のはばたきに誘われるは一面の黄金色の野花、そのもとに回転舞台で舞い始めるは保名ではなく大川橋蔵様としての存在(髪型…!)で、以降も映っているのが「演劇空間」であることがことさらに、過剰なほどに強調されていく。狐であることを明かすところの演出とか、さて段は変わって…の見せ方とかすごすぎてひっくり返りそうになった。ひとり三役の瑳峨三智子様は狐女房がいちばんの似合いで、顔の作りからしてどこか人ならざる存在感があるんだよな……妖艶さ(半開きの口からのぞく舌の赤さよ…!)と哀しさに優しさが入り交じる。人とは交われぬ「狐」とは本当に狐なのか、ということまで考えてしまうような健気。というか有名な子別れの段ってこの話に出てくるやつだったのかー!(いい年して知らないことが多すぎる)
原作の筋書きをあとで見てみたら、同じ話なのにひとりの娘を心から愛した美しい男(重要、今作において女性の美しさはまったく語られず彼だけが美しいと言われている…!)保名の哀れさ切なさが全然ないのでへー!と思った。基礎教養としての古典芸能が映画製作現場に共有されていた時代ということも当然あろうとは思いますが、にしてもこんな再解釈で映画化できるのか。すごい尖った映画でした。なお美術は蕗谷虹児先生。ひゃー
「恋や恋なすな恋」なんかすごかった。元の人形浄瑠璃/歌舞伎はみたことないんだけど、伝統芸能演目の映画化にこんなやり方があったのか……昔に語られた遠い昔のものがたり、を現代的解釈にしながら、しかしこれを「それらしく」語るために必要なのは今の技術だけではないのだ、という……なんだこれ。筋の面白い面白くないを超えて、映画という媒体でこれができるのか…!となった。
絵巻物からして実に美麗、そこにに重なるナレーション、ふむふむこういう時代ものねー、私はこういう感じを知ったのは「新・平家物語」からかなー、はたまた幼少期に読んだ絵本やまんが日本昔ばなし……健気に思い合う男女が悪い人たちに踏みにじられるあれだー、などと途中までフムフムと見ていたらびっくりしたよ……!
まああの弓拷問シーンの禍々しさ、袖につきたてられた太い丸太、どう見ても命ある演者の手と思えないあの手、あたりからなんか異様になってきた……の気配があったんだが、「狂ひ」が始まってからの尋常じゃなさ凄い……本当の本当らしさは「見立て」という伝統のなかですべて描けるではないかといわんばかりの虚構性を強調する実験的演出の連打とアニメーション(東映動画ですからね)で凄まじきメロドラマの血潮がうねりはじめ…役者の人形性…なんだこれは…
しかしよく似た2作だな…全然違う話なのに主人公のあり方がすごくよく似ている。最初の映画と最新の映画がこうも共通しているの面白いね。
血まみれの顔と鏡、が反復されるグリーンフィッシュはおかあさんが質問に答えないとことか、柳のガサガサ…の音が凄いのとか、終盤のシークエンスがゴーストだ……となるとことか好き。
バーニングは序盤のたばこの灰をカップに捨てるときに唾をはくのとか、家のモノの数の対比とか、ごはん食べてるとハエがくるところ(牛小屋があるところだと当然そうでなくてはいけない、そういう態度で作るかどうかは作風を決める)とか、色々好きなとこはあったし、音楽の使い方もすごく面白かった。フォークナーを「自分の話だと思う」人間の話というのは原作どおりなんだろうか。原作にはない種類の批評性が生まれていた気がする。ビニールが溶ける感じも官能的でよかった。
ただなー。どっちも女の人は謎めいていて、かわいそうな目にあうために存在している感が強い気がする。それが現実だとしても、ちょっと気持ち悪いんですよね…これはポエトリーや密陽が苦手、というより「嫌い」と思ってしまう理由でもあって。でもペパーミント・キャンディーだけは(やはりイノセンスの象徴としての女が死ぬ話なのに)大丈夫だったんだよなー。どこが違うんだろうなー
JAIHOもう1か月くらい続けるかー、ということでイ・チャンドンのグリーンフィッシュと実は見てなかったバーニングを見た。どっちも面白かったけど、根っこのとこでやはりあんまり好きにはなれない監督やも…という気持ちになった。ペパーミント・キャンディーは別格であれはさすがに苦手さが前に来ないレベルに突き抜けて凄すぎると思ったんだが。あとは見てないのオアシスか、気が重くてまだ見られないのである…
『幸福なラザロ』がなんとも不思議面白映画だったので戸惑いつつも、この「どのように在ることが正解な話なのかまったくジャッジできない」感じは良きだな…もちろん「こうあってほしさ」をスパンと射抜かれるのも気持ちいいのだが、私の今の感覚にジャストになるというのはよほどでないと難しいわけで、「どこにいくんだこれ」になってくれるのは嬉しいものだ。
アドリアーノ・タルディオーロの身体の表情がとても素晴らしい。天使の塑像の顔、厚い胸板、シャツから除く胸毛、どっしりした腰まわり、ふんわりした声、てくてく歩く姿の絶妙なこの世の外の人らしさ。監督は彼を発見した瞬間にこの人しかいないと思ったのではないか。
『天空のからだ』は背景を知らないとわからない要素がそこそこある映画だったけど、こっちは宗教とかイタリアの農村部の状況とか労働者と移民の歴史とか要素が色々入ってるわけだけど、多分そのあたりはそんなに知らなくても大丈夫だと思う(私がそうなので)
いずれにせよエリエリレマサバクタニの話ではある。が、それが言語によってというより身体や物体、具体でガシッとやってくのが骨太でいいですね。あの落下とかすごくね?
アルモドバル作品はそんなに得意ではないのだが『ジュリエッタ』も結構面白かった。ケア(心配)とケア(世話)の交わるところ×大いなる力、みたいな話だったのね。
インテリアの最高さは毎度なんだけど、今作のそれは特に冴えてた気がする。2つの色彩の壁の中央に配置される顔!巨大な時計!魚とホタテ柄のキッチンタイル!海が見える窓の格子の絶妙な位置!完璧な色彩のサラダとオムレツ!悪趣味なのか豪華なのかよくわからない、マドリッドのアパートメントの壁紙!
罪悪感の話としては「アルモドバル先生ってばまーた男に甘いー」と思うのだが(恋人はともかくとして父親ーっ!一方女は罪悪感を募らせ「罰を受けるべき」が連鎖する、そもそもジュリエッタの罪悪感の対象にはなんでか女は含まれてない)なんだけど、父母と息子では生じにくい関係性を母と娘で描きたい気持ちはなんとなく理解できるし、うっすら「超越的ななにかに引っ張られている」ニュアンスが出てくるのでじゃあ仕方ねーか、と思った。仕方ないよね、愛は呪いだから…
今日は『アメリカン・フィクション』と『ジュリエッタ』を見たよ。全然そんな映画だと知らずに見て介護映画2本立てみたいになった。いや主題はそこにはない話なんだけど、どっちも圧倒的存在感の家政婦さんが出てくる話であったな。後者にいたってはピカソの女の顔を持つロッシ・デ・パルマ様である。物語を支配するのは当然なのである。
で、『アメリカン・フィクション』は『リッキー・スタニッキー』ともつながっている。というかリッキー・スタニッキーが「アメリカン・フィクション」のタイトルでも成立する、というかのむしろ誠実な「アメリカン・フィクション」なのよね実は。
表象の話なのにそこはいいのかね?みたいなとこにちょいちょい引っかかりがあるが、一応オチで回収されているものと見られなくもないので、まあ許容範囲かな。
ジェフリー・ライトはまあうまいことうまいこと、立ち居振る舞いに自分を高く見積もってるのか低く見積もってるのかわかんなくなってる人、無責任にもなりきれないが責任ある大人の行動は苦手な人の居心地の悪さ、ゴソゴソモゾモゾした感じと尊大さが絶妙に混ざっている
台詞がいちいちおかしい、クナウスゴールみたいなオートフィクションだろどーせ!とかアーヴィン・ウェルシュみが…とか文芸の内輪ネタ感も強いけどまあ実にそんな感じよな
ポリコレが今みたいに特定の層が目の敵にする相手を揶揄する言語になる前からずっと、意識低い系に偽装して、いたって真面目に(時代の限界はあれど)「みんな」のコメディをやる、がファレリー兄弟案件だと思ってるので『俺らのマブダチ リッキー・スタニッキー』のしょうもなさ(今の私はギャグがこの路線のやつってメインキャラが男子でも女子でも苦手なんで)の向こうに割と本気でアメリカは大事なこと忘れちゃあかんよ、の真顔を見た気がして、ちょっとグッときちゃったな。representationは社会的な要請と関係なく既にそこにあるものってだけなんだから何を今更、というね。
世の中にはいろんな人がいるに決まってる。失敗してダメダメなことだってたくさんある。でもさー、みんなで幸せになろうや!フリでもいいから良い奴であろうや!という。
勝手がわからない