フォロー

「恋や恋なすな恋」なんかすごかった。元の人形浄瑠璃/歌舞伎はみたことないんだけど、伝統芸能演目の映画化にこんなやり方があったのか……昔に語られた遠い昔のものがたり、を現代的解釈にしながら、しかしこれを「それらしく」語るために必要なのは今の技術だけではないのだ、という……なんだこれ。筋の面白い面白くないを超えて、映画という媒体でこれができるのか…!となった。

絵巻物からして実に美麗、そこにに重なるナレーション、ふむふむこういう時代ものねー、私はこういう感じを知ったのは「新・平家物語」からかなー、はたまた幼少期に読んだ絵本やまんが日本昔ばなし……健気に思い合う男女が悪い人たちに踏みにじられるあれだー、などと途中までフムフムと見ていたらびっくりしたよ……!

まああの弓拷問シーンの禍々しさ、袖につきたてられた太い丸太、どう見ても命ある演者の手と思えないあの手、あたりからなんか異様になってきた……の気配があったんだが、「狂ひ」が始まってからの尋常じゃなさ凄い……本当の本当らしさは「見立て」という伝統のなかですべて描けるではないかといわんばかりの虚構性を強調する実験的演出の連打とアニメーション(東映動画ですからね)で凄まじきメロドラマの血潮がうねりはじめ…役者の人形性…なんだこれは…

(ワイヤーがうっすら見えている)2羽の蝶々のはばたきに誘われるは一面の黄金色の野花、そのもとに回転舞台で舞い始めるは保名ではなく大川橋蔵様としての存在(髪型…!)で、以降も映っているのが「演劇空間」であることがことさらに、過剰なほどに強調されていく。狐であることを明かすところの演出とか、さて段は変わって…の見せ方とかすごすぎてひっくり返りそうになった。ひとり三役の瑳峨三智子様は狐女房がいちばんの似合いで、顔の作りからしてどこか人ならざる存在感があるんだよな……妖艶さ(半開きの口からのぞく舌の赤さよ…!)と哀しさに優しさが入り交じる。人とは交われぬ「狐」とは本当に狐なのか、ということまで考えてしまうような健気。というか有名な子別れの段ってこの話に出てくるやつだったのかー!(いい年して知らないことが多すぎる)

原作の筋書きをあとで見てみたら、同じ話なのにひとりの娘を心から愛した美しい男(重要、今作において女性の美しさはまったく語られず彼だけが美しいと言われている…!)保名の哀れさ切なさが全然ないのでへー!と思った。基礎教養としての古典芸能が映画製作現場に共有されていた時代ということも当然あろうとは思いますが、にしてもこんな再解釈で映画化できるのか。すごい尖った映画でした。なお美術は蕗谷虹児先生。ひゃー

ログインして会話に参加
Fedibird

様々な目的に使える、日本の汎用マストドンサーバーです。安定した利用環境と、多数の独自機能を提供しています。