(ワイヤーがうっすら見えている)2羽の蝶々のはばたきに誘われるは一面の黄金色の野花、そのもとに回転舞台で舞い始めるは保名ではなく大川橋蔵様としての存在(髪型…!)で、以降も映っているのが「演劇空間」であることがことさらに、過剰なほどに強調されていく。狐であることを明かすところの演出とか、さて段は変わって…の見せ方とかすごすぎてひっくり返りそうになった。ひとり三役の瑳峨三智子様は狐女房がいちばんの似合いで、顔の作りからしてどこか人ならざる存在感があるんだよな……妖艶さ(半開きの口からのぞく舌の赤さよ…!)と哀しさに優しさが入り交じる。人とは交われぬ「狐」とは本当に狐なのか、ということまで考えてしまうような健気。というか有名な子別れの段ってこの話に出てくるやつだったのかー!(いい年して知らないことが多すぎる)
原作の筋書きをあとで見てみたら、同じ話なのにひとりの娘を心から愛した美しい男(重要、今作において女性の美しさはまったく語られず彼だけが美しいと言われている…!)保名の哀れさ切なさが全然ないのでへー!と思った。基礎教養としての古典芸能が映画製作現場に共有されていた時代ということも当然あろうとは思いますが、にしてもこんな再解釈で映画化できるのか。すごい尖った映画でした。なお美術は蕗谷虹児先生。ひゃー