『ジョージア、白い橋のカフェで逢いましょう』は含み笑いでできているような、超ロマンティックにキラキラした映画で、全体的に謎なことはなにもないけど謎なことしかなくて、大変かわいかった。
ガーマルチョバ!って私もそのへんのひとに挨拶したくなる。誰も泣かない、誰も怒らない。人がそこに在るように道があり、橋があり、結構な荒波の川が流れてて、ロープウェーがわたってて、犬が居て、鉄棒があって、カフェでは合唱が始まり、サッカーボールが転がっている。ギオルギの部屋の下に集まったこどもたちがわやわやー!としながら走っていくときにエイヤッて側転する子がいるのとか、画面の端から現れた犬がトトトト…と逆方向に向かっていくのとか、なんかもうリズム的に気持ちいいんですよ。
「誰だお前は」な語り(監督)も大真面目な声でよろしい。あまりにも「なんだこれ」が繰り返されるのに笑ってしまって、相手の姿がわからないふたり、などは関係なく進んでいくあちこちの画面の豊かさにずっとふわふわ酔っぱらって散歩してるような気持ちよさがあった。と思ってたら最後めちゃくちゃいい終わり方。ここにはそういう話があるんですよ、ここまで見てきた人にはわかるでしょう、教訓もなければオチもない不思議なだけのお話が、でも幸せな余韻とともに終わる場所だって
『アンデス、ふたりぼっち』は本当に「ふたりだけ」の度合いがすごくてびっくり。ボリビアの『UTAMA』を思い出さずには居られない話なのだが、あちらは「男衆」「女衆」がある世界だったが、それがないからかどちらもえらそうなところ、保護すべき対象としているところが全然ないのが興味ぶかかった。
そして生活のハードモードがすぎて二度びっくり。序盤ヒョイヒョイッと顔を出すリャマかわいいねー、などと見つつもこれはどんどん大変なことになってく話だろう、とわかっていたが、さすがにちょっと想像できないレベルだった。
5000メートルを超える高地で撮影している自然の凄さもさることながら、とにかくこれはおじいさんおばあさん、そして動物をひたすらに見ていればいい、そういう映画。佇まいの素晴らしさ、不思議な儀式の動き、唱えられる祈りの言葉。
演技としてはあまりにも朴訥とした「台詞を喋っている」感の強いぎこちない言葉の感じ(当然アイマラ語がわかるわけではないのですが、聞き慣れた「感情の乗った」リズムの言葉は語られない、と一言めからわかる)に「大丈夫かね」という気持ちになったが、いや違うのだ、これはこの人たちはこのように実際語るのであろう、とわかった(実際はわからないけど、映画としてはそれでいいのだ、って感じね)
『2/デュオ』は絶対トリガーワーニング入れたほうがいいと思ったけど(マジでこの映画の精神的DVの厭さはやべーもんがある、そのわけのわからない当たり散らし方といつなにが原因になるのかわからなさが凄い緊張感で厭すぎるのよ)90年代の一部の邦画のやたら尖った実験精神と諏訪さん(根っからまっとうな監督代表みたいな人ですよね)の真面目で丁寧な「みんなで作る」が組み合わさって、ただただ異様なものができているのが面白くて、自由だなーオイ!とギャー!怖いよー!でも私は(直接経験したわけじゃないけど間接的に)知ってるんだよこの感じー!を繰り返して心がひび割れた。疲れた。大丈夫って言うひとは絶対大丈夫じゃない人。カメラ位置の関係でどんな顔をして聞いているのかわからないところがずーっとわからないまま続くのとかも超怖い。
設定を決めて即興で展開を作っていくというインプロ要素を取り入れた映画は色々あると思うけど、ここまで「フレームがあることを意識させては、劇映画とドキュメンタリー/自然と不自然の境界線を妙なタイミングで溶かす」試みがなされているのすごいわね。演じる存在の視点で答えているのか、キャラクターとして答えているのかインタビューパートの曖昧さとか、柳愛里のアッ…アッ…の声とか忘れがたいわね…