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『まだ明日がある』、素晴らしかったな。パオラ・コルテッレージの抑圧の中でパキパキ動き回る人の身振りが本当に見事なんだよなあ、良いなあ。そしてこれが初監督なのも本当にすごいなあ。この物語を音楽劇として見せるというのが素晴らしい。

チョコザップのバナー広告の「やらんよりまし!」はチョコザップ使う層にちゃんとリーチできるコピーだなと感じる

『陸軍中野学校』は現代劇のときの雷蔵様のよくわからない人の顔×やりすぎてないほうの増村保造でさすがの面白さだった youtube.com/watch?v=-L2da51etw 2週間限定の無料公開中。明日?明後日あたりまでのはず

ちっちゃいときのつきまといかたすごいからね、じゃけんにしてもまったくめげずについてくるのよね…今では姉よりずっと「大人」をやっているし姉に頼るとか考えてもない感じのイケてるママさんな妹ちゃんだが、しかしやはり私の心にはずっとモチモチしてた頃の「お姉ちゃん🥰」な妹ちゃんがいる

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フランス映画のこどもさんでは妹ちゃん、韓国映画のこどもさんでは弟くんが良いキャラのことが多い気がしている。どっちにしてもおにいちゃんやおねえちゃんにくっついてく小さい子をみているのは楽しいし幸せ。わたしも妹ちゃんからつきまとわれていて、面倒だけどまんざらでもなかった

ここでは「女の子」「男の子」と書く方がよかったかもしれない(作品から本人が自身をどう捉えてるかはわからないので)

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『イン・ベイン むなしい愛』を見たのですがあまりにもすべてが合わない映画だった、久々にこんな「何でこんなの見てるんだ」を感じた(見始めたら最後まで見ますが) 短編でよかった。これはペシミスティックな顔、パセティックな気配を見せようとしてるのかもしれないが、こんなん悪意しかないじゃんと思う。

口直しに『トムボーイ』を見て、やはりセリーヌ・シアマのぶつかりにぶつかるこどものからだの捉え方は良いわねーとホッとした。10年以上前なので(今のSNSを見ていると特に)どうしてもあやうさは感じるけど、それでもやはり夏はこどもさんのものだよねって気持ちになれる嬉しさ。とにかくお子さんたち何も考えず大人になったらしない距離の詰め方でペタペタするんだよな。女の子が男の子のふりをすることの「背景」なしに「前景」だけで描くのがいい。ところどころにこの年代でも「男の子社会」が既に「男社会」の振る舞いに寄るんだなあと見せつつ、こどもはこどもなのでそこまで大人社会の投影はしてないのも好ましく。君と一緒ならどこへでも!の余韻の付け方とかさすが。

フランスのこどもさんの映画はもちもちしたほっぺと手足でトテトテ動く上の子にくっつきがちな妹ちゃんが素晴らしいことが多いですね。6才と5才半の会話の社会性!夏休み映画のよさにあふれていた。

ざーっとでもメモしないと忘れるので覚えてるあいだに印象だけ書き残すのだ

『2/デュオ』は絶対トリガーワーニング入れたほうがいいと思ったけど(マジでこの映画の精神的DVの厭さはやべーもんがある、そのわけのわからない当たり散らし方といつなにが原因になるのかわからなさが凄い緊張感で厭すぎるのよ)90年代の一部の邦画のやたら尖った実験精神と諏訪さん(根っからまっとうな監督代表みたいな人ですよね)の真面目で丁寧な「みんなで作る」が組み合わさって、ただただ異様なものができているのが面白くて、自由だなーオイ!とギャー!怖いよー!でも私は(直接経験したわけじゃないけど間接的に)知ってるんだよこの感じー!を繰り返して心がひび割れた。疲れた。大丈夫って言うひとは絶対大丈夫じゃない人。カメラ位置の関係でどんな顔をして聞いているのかわからないところがずーっとわからないまま続くのとかも超怖い。

設定を決めて即興で展開を作っていくというインプロ要素を取り入れた映画は色々あると思うけど、ここまで「フレームがあることを意識させては、劇映画とドキュメンタリー/自然と不自然の境界線を妙なタイミングで溶かす」試みがなされているのすごいわね。演じる存在の視点で答えているのか、キャラクターとして答えているのかインタビューパートの曖昧さとか、柳愛里のアッ…アッ…の声とか忘れがたいわね…

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『アンデス、ふたりぼっち』は本当に「ふたりだけ」の度合いがすごくてびっくり。ボリビアの『UTAMA』を思い出さずには居られない話なのだが、あちらは「男衆」「女衆」がある世界だったが、それがないからかどちらもえらそうなところ、保護すべき対象としているところが全然ないのが興味ぶかかった。

そして生活のハードモードがすぎて二度びっくり。序盤ヒョイヒョイッと顔を出すリャマかわいいねー、などと見つつもこれはどんどん大変なことになってく話だろう、とわかっていたが、さすがにちょっと想像できないレベルだった。

5000メートルを超える高地で撮影している自然の凄さもさることながら、とにかくこれはおじいさんおばあさん、そして動物をひたすらに見ていればいい、そういう映画。佇まいの素晴らしさ、不思議な儀式の動き、唱えられる祈りの言葉。

演技としてはあまりにも朴訥とした「台詞を喋っている」感の強いぎこちない言葉の感じ(当然アイマラ語がわかるわけではないのですが、聞き慣れた「感情の乗った」リズムの言葉は語られない、と一言めからわかる)に「大丈夫かね」という気持ちになったが、いや違うのだ、これはこの人たちはこのように実際語るのであろう、とわかった(実際はわからないけど、映画としてはそれでいいのだ、って感じね)

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『赤い影』はうっすらフラッシュバック/フォワードの映画だということは知っていて(実際画面設計が極めてノーランの元ネタ的な…と思ってたらやっぱりそうなのねohtabookstand.com/2020/12/8040

既にネタバレ云々ではない映画だとは思うのだが、運良く?詳しいことを知らなくて、素直に「そういう話だったのねー」となれてよかったです。この時代のドナルド・サザーランドは美しい獅子のような風貌で、古都の美観に負けないダイナミックな身体と圧倒的に強い顔。そこがいちばんの目眩ましポイントになってるのが面白いなーと。

全体にただただ思わせぶりといえばそれまでなのだけど、とにかく冒頭のカットバックの矢継ぎ早が異様すぎて目を見張ったし、熱烈なセックス描写(これも有名ね)の編集のリズムも、後半に教会で起きる事態のカメラワークもすごい独特で見てて楽しい。なんか全部が不自然なんだけど、不自然すぎて自然に見えてくる。なぜか人が歩いてなさすぎる歩道とか人形を拾うとか、やりすぎなんだけど、でもなんかいいの。

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『ジョージア、白い橋のカフェで逢いましょう』は含み笑いでできているような、超ロマンティックにキラキラした映画で、全体的に謎なことはなにもないけど謎なことしかなくて、大変かわいかった。

ガーマルチョバ!って私もそのへんのひとに挨拶したくなる。誰も泣かない、誰も怒らない。人がそこに在るように道があり、橋があり、結構な荒波の川が流れてて、ロープウェーがわたってて、犬が居て、鉄棒があって、カフェでは合唱が始まり、サッカーボールが転がっている。ギオルギの部屋の下に集まったこどもたちがわやわやー!としながら走っていくときにエイヤッて側転する子がいるのとか、画面の端から現れた犬がトトトト…と逆方向に向かっていくのとか、なんかもうリズム的に気持ちいいんですよ。

「誰だお前は」な語り(監督)も大真面目な声でよろしい。あまりにも「なんだこれ」が繰り返されるのに笑ってしまって、相手の姿がわからないふたり、などは関係なく進んでいくあちこちの画面の豊かさにずっとふわふわ酔っぱらって散歩してるような気持ちよさがあった。と思ってたら最後めちゃくちゃいい終わり方。ここにはそういう話があるんですよ、ここまで見てきた人にはわかるでしょう、教訓もなければオチもない不思議なだけのお話が、でも幸せな余韻とともに終わる場所だって

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『ジョージア、白い橋のカフェで逢いましょう』『赤い影』『アンデス、ふたりぼっち』『2/デュオ』を見た流れで思ったこと。

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先日から映画って自由なんだなー、という映画ばかり見ていたので、今オーソドックスなの見たらむしろ新鮮に感じそう。自由だなー!の自由の方向が全部バラバラなのでちょっと混乱している。

『ジョージア、白い橋のカフェで逢いましょう』(結構よかった、すっとんきょうなことを大真面目にロマンティックに淡々と)を見て、本筋と関係ないとこで「やっぱジョージアの人たち興が乗ってくるとみんなでコーラスする文化なのか…?」ってなった。『マイ・ハッピー・ファミリー』で普通の飲み会での超本格的な合唱をきいてからジョージアといえば合唱のイメージが…

(ワイヤーがうっすら見えている)2羽の蝶々のはばたきに誘われるは一面の黄金色の野花、そのもとに回転舞台で舞い始めるは保名ではなく大川橋蔵様としての存在(髪型…!)で、以降も映っているのが「演劇空間」であることがことさらに、過剰なほどに強調されていく。狐であることを明かすところの演出とか、さて段は変わって…の見せ方とかすごすぎてひっくり返りそうになった。ひとり三役の瑳峨三智子様は狐女房がいちばんの似合いで、顔の作りからしてどこか人ならざる存在感があるんだよな……妖艶さ(半開きの口からのぞく舌の赤さよ…!)と哀しさに優しさが入り交じる。人とは交われぬ「狐」とは本当に狐なのか、ということまで考えてしまうような健気。というか有名な子別れの段ってこの話に出てくるやつだったのかー!(いい年して知らないことが多すぎる)

原作の筋書きをあとで見てみたら、同じ話なのにひとりの娘を心から愛した美しい男(重要、今作において女性の美しさはまったく語られず彼だけが美しいと言われている…!)保名の哀れさ切なさが全然ないのでへー!と思った。基礎教養としての古典芸能が映画製作現場に共有されていた時代ということも当然あろうとは思いますが、にしてもこんな再解釈で映画化できるのか。すごい尖った映画でした。なお美術は蕗谷虹児先生。ひゃー

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「恋や恋なすな恋」なんかすごかった。元の人形浄瑠璃/歌舞伎はみたことないんだけど、伝統芸能演目の映画化にこんなやり方があったのか……昔に語られた遠い昔のものがたり、を現代的解釈にしながら、しかしこれを「それらしく」語るために必要なのは今の技術だけではないのだ、という……なんだこれ。筋の面白い面白くないを超えて、映画という媒体でこれができるのか…!となった。

絵巻物からして実に美麗、そこにに重なるナレーション、ふむふむこういう時代ものねー、私はこういう感じを知ったのは「新・平家物語」からかなー、はたまた幼少期に読んだ絵本やまんが日本昔ばなし……健気に思い合う男女が悪い人たちに踏みにじられるあれだー、などと途中までフムフムと見ていたらびっくりしたよ……!

まああの弓拷問シーンの禍々しさ、袖につきたてられた太い丸太、どう見ても命ある演者の手と思えないあの手、あたりからなんか異様になってきた……の気配があったんだが、「狂ひ」が始まってからの尋常じゃなさ凄い……本当の本当らしさは「見立て」という伝統のなかですべて描けるではないかといわんばかりの虚構性を強調する実験的演出の連打とアニメーション(東映動画ですからね)で凄まじきメロドラマの血潮がうねりはじめ…役者の人形性…なんだこれは…

しかしよく似た2作だな…全然違う話なのに主人公のあり方がすごくよく似ている。最初の映画と最新の映画がこうも共通しているの面白いね。

血まみれの顔と鏡、が反復されるグリーンフィッシュはおかあさんが質問に答えないとことか、柳のガサガサ…の音が凄いのとか、終盤のシークエンスがゴーストだ……となるとことか好き。

バーニングは序盤のたばこの灰をカップに捨てるときに唾をはくのとか、家のモノの数の対比とか、ごはん食べてるとハエがくるところ(牛小屋があるところだと当然そうでなくてはいけない、そういう態度で作るかどうかは作風を決める)とか、色々好きなとこはあったし、音楽の使い方もすごく面白かった。フォークナーを「自分の話だと思う」人間の話というのは原作どおりなんだろうか。原作にはない種類の批評性が生まれていた気がする。ビニールが溶ける感じも官能的でよかった。

ただなー。どっちも女の人は謎めいていて、かわいそうな目にあうために存在している感が強い気がする。それが現実だとしても、ちょっと気持ち悪いんですよね…これはポエトリーや密陽が苦手、というより「嫌い」と思ってしまう理由でもあって。でもペパーミント・キャンディーだけは(やはりイノセンスの象徴としての女が死ぬ話なのに)大丈夫だったんだよなー。どこが違うんだろうなー

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映画館控えてるのは感染の可能性もあるんだが警報出るレベルの雨が続いてるからもあり、まあ今月はせっせとお家で映画みるみるタイムしてればいいかの気持ち

JAIHOもう1か月くらい続けるかー、ということでイ・チャンドンのグリーンフィッシュと実は見てなかったバーニングを見た。どっちも面白かったけど、根っこのとこでやはりあんまり好きにはなれない監督やも…という気持ちになった。ペパーミント・キャンディーは別格であれはさすがに苦手さが前に来ないレベルに突き抜けて凄すぎると思ったんだが。あとは見てないのオアシスか、気が重くてまだ見られないのである…

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