こんな事になるとは想像もしていなかったのだが、少し前にDr.スランプを読み直してみたいなー、読むならやはり紙の本がいいなーと、ヤフオクやメルカリを物色してみたものの結局買わなかったという事があった。ほんの小さい頃に読んだきりなのだが、大人になってから読むと初めてわかる小ネタが散りばめられているのではないかと思ってね。作者死去で値段が高騰していなければ良いが。
ところで、私の両親は田舎者らしく超ド級の保守派で、テレビはNHK以外はほとんど禁止、漫画も親が認めた一部以外は禁止とまあ酷い管理教育だった。結果、私は保守主義が大嫌いな人間に育ったのだが、それはともかく何故か『Dr.スランプ』は読むのを許されていた。保守の価値観からしてケシカラン内容が多く含まれていたような気がするので謎なのだが、超ド保守派のクソ親父の目から見ても明らかなくらい鳥山明のセンスの良さは際立っていたという事なのかな。
子供の頃のおぼろげな記憶だけを基に言うのだが、能登という所は高い山もなく、非常になだらかで穏やかな土地だった。母によれば道路整備も地震の前は結構充実していたらしい。「能登はやさしや土までも」とは伊達に言われてはいないのだ。もっとも、地盤も非常に優しいものだったから、余計に地震でやられてボロボロになってしまったのかもしれない。とにかく、険しい地形の山深い過疎地域だから救助もままならないのは仕方のないことだ…という世間一般のイメージはかなり間違っていて、やはり救助の遅れは人災の側面が強かったのではないかと思う。正直、能登と比べると私の住んでいる地域の方がよほど険しい山々に囲まれている。だから、もしここで大地震に見舞われたら、もう確実に政府には見捨てられると思う。能登でさえ見捨てたような対応だったのだから。日本の西でも東でも地震が頻発している最中、非常に背筋に冷たいものを感じる。
実は昨日、名古屋に行っていた。徳川美術館で尾張徳川家秘蔵の雛人形が展示されているというのでそれを見るつもりだったが、美術館の前まで来て初めて月曜休館だと気づき、しまったァーッ!一生の不覚!やられたぜチクショー!と地団駄を踏んだ。で、そのまま何もせずにスゴスゴと帰ろうかと思ったが、それも悔しいので代わりに何かやってないかその場でスマホで調べて、金山という所でやっていた北斗の拳原画展を急遽見に行った。結構面白かったけど、尾張徳川家の雛人形とは相当趣きが違っていたな(当たり前か。)そういうわけで、昨日からずっと脳内で北斗の拳の台詞が何度もリフレインしている。あべし!ひでぶっ!you are shock!ときに、今月もう一回名古屋に行く予定なので雛人形はその機会に見に行こうかと思う。
『枯れ葉』という映画を見た。アキ・カウリスマキという監督の名前は知っていたものの作品を見たことはなかったのだが、ちょっと旧作も見たくなるくらい面白かった。不器用で仕事をクビになってばかりいる男女が出会って恋をして、何度かすれ違うが結局最後に結ばれてめでたしめでたしという説明すればそれだけの話だが、シンプルイズベストという感じの映画だった。主人公2人の佇まいが実に良いのだよな。お互い人生に倦み疲れて感情も表に出さず封じ込めるようになっていて、それでも少しずつおずおずと表に出す様子がかわいかった。最後に映画の題名どおり「枯れ葉よ〜♪」の歌が流れるのだが、この2人はこの後結局別れてしまうことを暗示しているのだろうか?
私は新しいもの好きなのでしばらくblueskyに入り浸っていたが、いやーやっぱりmastodonがいいよmastodonが。Twitterをやめてこっちに移ってきてもう長いからTwitterがどんな風だったか感覚的に思い出せなくなっていたが、何だかblueskyをやってるうちに「あーそうだ、こんな感じだったっけ」とだんだん思い出してしまってね。エロアカにばかりフォローされるしクソリプも付くし。情報収集手段としてはblueskyの方が優れているのでやめはしないが、マッタリと色んな人の投稿を見て楽しんで、自分も思いつくまま好き勝手な事を投稿しても別に誰にも腐されたりしない(もちろんヘイトスピーチとかはダメだが)のはmastodonというかfediverseだよな。そんなわけで、今後もここをメインのSNSとさせてもらおうと思っている。そのうちthreadsがfediverseと繋がったら情報収集も今よりもできるようになるかもしれないし。
ふきのとう古き油で揚げるなかれ
#俳句
ニンニクたっぷり入れて味付けした鶏肉唐揚げみたいな下品な食い物だったら少々古い油で揚げても気にせず食えるが、春の香りを楽しむ繊細なふきのとうの天ぷらみたいなものは決して古い油で揚げないほうが良いよ。油臭くて、せっかくのふきのとうが台無しに…トホホ…という戒めの句。
私たちの多くは天皇や上皇を人格者だと信じて好ましく思っている。実のところメディアを通した姿しか知らないし、それも常に人格者らしく振る舞う事を要求されるフォーマルな場での姿しか知らないので本当はどんな人なのか全然わからないのだが、それでも何となく人格者なんだろうなと思っている。言わば、皆が天皇を人格者だと信じて敬意を抱くことで象徴天皇制というものは成り立っているわけだ。だから、仮に竹田某みたいな奴が天皇の位につけば象徴天皇制はあえなく崩壊するのかもしれない。
ところで、世の中に「名誉白人」とか「名誉男性」と呼ばれる人がいるように、「名誉天皇」と呼ばれるべき人もいると思う。皆が好ましい人物だと何となく信じ、メディアの扱いも天皇のそれと被る人物。言うまでもなく最近の大谷翔平がその典型だ。大谷の「御成婚」報道のはしゃぎっぷりには正直言って辟易とするし、政治倫理審査会のニュースなどを差し置いて報道するネタかよとも思う。しかし、例えば近年醜態を晒した元五輪メダリストで現・政治家の連中もかつては「名誉天皇」として好意的な視線を浴びていた時代があったのであって、いつか大谷天皇もスキャンダルや失言にまみれて、あえなく天皇制崩壊という事態にならなければいいけどなと大きなお世話ながら心配している。
そういえば、松本人志は大変な筋トレマニアで、鍛え上げた肉体美を誇示するタイプだったらしい。で、体を鍛え出した頃から勘違いした言動が多くなり、性加害が始まったとされるのもその頃かららしい。それで、三島由紀夫などの前例から言っても筋肉を付けると異常な思想に走る奴は引きも切らない、筋肉は有害だ!という主張をする人もいる。私も運動を1秒たりともせずにみっともなくデブるにまかせていた頃ならそうだそうだその通り!と喝采を上げていただろうが、体を鍛え出した今となってはそうもいかない。筋肉は単なる筋肉であり、それ以上でもそれ以下でもないよ…筋肉無罪…と小声で反論したくなる。
それにしても、実際筋肉をつけると思想的あるいは人格的におかしくなる人が多いのは何故なのだろうね。それまで鬱々とコンプレックスを抱いていた者が肉体改造によって急激に自信を得たために精神的におかしくなるという事なのだろうか。でもそれなら何も筋肉をつける事だけに限った話ではないような気がするが。例えば根暗でモテなかった男が東大に合格した途端におかしくなるということがあるだろうか?…ありそうな気がするな…。
久々に筋トレについて書こうと思う。筋トレ指南書『プリズナートレーニング』は1メニューにつき10のステップに分かれており、ステップが上がるに従ってトレーニングの強度が増す仕組みになっている。例えば腕立て伏せの場合、ステップ1が壁に手をついて腕立て伏せ、ステップ2が机に手をついて腕立て伏せ、ステップ3が床に膝をついた姿勢で腕立て伏せ、ステップ4が体の下にバスケットボールを置いて体にボールが触れるまで腕を曲げる、ステップ5に至ってやっと通常の腕立て伏せとなる。中略してステップ10が片腕での腕立て伏せで、それができるようになったらゴールというわけだ。で、一応なんとかコツコツと続けているのだが、最近ステップが上がってトレーニングがきつくなり、サボりの虫がまたしても鳴き始めた。どうも一定のステップに達すると急にキツくなるらしく、例えばスクワットだとステップ6(足を閉じた姿勢でのスクワット)までは楽勝なのに、ステップ7(片足をバスケットボールに乗せてスクワット)になるともう全然できない。かなりメゲそうだが、ここを乗り切ればムキムキマッチョボディが手に入ると信じて頑張るほかない。鏡を見る限り体つきは以前と全然変わらない貧相さに見えるのだが、たぶん全ステップ完了すれば見違えるのだろう。そういう事にしとこう。
blueskyで若者論を批判している人がいた。例えば最近ちょっと話題になっていた「今の若者は人権を怖がる」だとか、「今の若者は常陸という字の読み方を知らない」というような雑な若者モンスター論に対し、それは差別だと指摘していた。私も全く同感だ。そんなのは古代エジプトの時代から言われ続けてきた化石のような差別的俗論に過ぎないし、私がいつもここでくどくどしつこく指摘してきたインテリの大衆蔑視と同根の話だなとも思えた。「嗚呼、若者は何と愚かなのか!」と嘆くのも、「嗚呼、大衆は何と愚かなのか!」と嘆くのも、嘆いている自分に酔っ払っているだけのマスターベーション言説に過ぎないだろう。それは違うというのなら、その嘆きの対象にあなた自身は含まれるのかと問い質したい。他人を批判する時は「そういう自分はどうなのか」と批判を反転させる視点が不可欠だ。自分も所属する社会全体を批判するならなおさらではないか。上から目線の嘆き系インテリリベラル連中がそういう視点を持っているようにはとても見えない。
https://gigazine.net/news/20240226-bluesky-federation-for-self-hosters/
最近blueskyにちょっとハマっているのだが、そのblueskyが本格的に分散型SNSになるらしく、同じく分散型のmastodon(fediverse)との違いが説明されている。全くのIT音痴の私なりに無い知恵絞って理解してみたのだが、これを読む限りblueskyは自分でサーバーを運営するならともかく、私みたいに書き込むだけの者からすればTwitterと大して変わらないように読める。つまり分散型云々を意識しなくても全然構わなくて、ただイーロン某氏みたいなイカれた大金持ちに突然買収されて滅茶苦茶にされるリスクが少なくなるメリットがあるというだけのことだ。それに対してfediverseはどのサーバーを選ぶかによって全然違ってくるし、否が応にも分散型であることを意識せざるを得ないわけだ。どちらが良いのかはよくわからないし、私としてはどっちもそれなりに楽しんでいるけどね。ただ、blueskyでは今までに35人をフォローしたがフォロワーはたったの4人で、そのうち3人はスパムアカウントだ(blueskyはブロックしてもフォローが解除されない仕様だ。)思えばTwitterもそんな感じだったような気がする。人情味を感じられるのは断然fediverseの方だよなあ。
今年の大河ドラマ『光る君へ』はなかなか出来が良いので楽しんで見ている。ところで、平安時代が舞台の大河は今までいくつかあったものの、平清盛とか平将門とか奥州藤原氏とかの武家勢力の勃興を描いたものばかりで、公家の政争を描いたものはこれが初めてなのではないか。もしかしたらこれは歴史学のトレンドを反映しているのかもしれない。一昔前は網野史学のように民衆史の視点で歴史を捉え直すのが流行りだったので、朝廷より庶民に近いところにいた在地の武士が好んで取り上げられたが、最近はやはり権力者視点の歴史が正しいみたいな考え方が流行りのようだから、それで公家が主人公になったのではないか。もちろんいずれの歴史観も一長一短だろうが、思い出してしまうのが2〜3年前にあった若手歴史学者の舌禍事件だ。確か有名学者がフェミニストの学者を誹謗中傷したり、「網野善彦はサヨク。平泉澄が正しい」とかTwitterでほざいたりしたのではなかったっけ。最近では歴史学者にもネトウヨ気質のオタクみたいな奴がいっぱいいるのかねえ…と、嫌な気持ちになったものだ。もちろん、本当にそういうあれこれが『光る君へ』と関係あるかどうかはわからないのだけどね。
このところ、色々あって床屋に行くひまがなかった。おかげで頭がボサボサになって、まるで昔の佐藤蛾次郎というか篠山紀信というか、そういう感じになっている。昔は髪に癖がついてなくて、しかも太っていたので髪が伸びると麻原彰晃にしか見えなかったが、歳と共に天パになり、しかも近年になって体重も落とした。重ねた年輪というわけでもないが、随分ルックスが変わったものだと自分でも思う。今のルックスだったら髪ボサボサにしていても怪しいとかだらしないというより個性的に見えるので別に構わないかなーと思わないでもないが、とにかく明日やっと床屋に予約を入れられたので、佐藤蛾次郎ルックにもこれでお別れというわけだ。じっと鏡を見る。
憂い雨三寒四温を問わぬ空
#俳句
暖かくなったり冷え込んだりと気温は目まぐるしく変わるのに天気は湿っぽく陰鬱なしょぼしょぼ雨ばかりで変わらない。どうなっとんねん、菜種梅雨と言うには早すぎないか。せめて気温が上がる日くらいパーっと晴れてくれよ、全くかなわん…という意味の句。毎度のことながら、説明が必要な時点で上手い句ではない。
今日はニャンニャンニャン(2/22)なので猫の日なんだって?ツカサのウィークリーマンションの日(アードレスはーニャンニャンニャン、てんこてんjp〜♪)じゃなくて?ときに、あのツカサという会社はもう倒産したのだそうだね。とまあ、冗談はさておき、猫というのは確かに可愛いものだ。しかし、今ほど猫の可愛さに猫も杓子もデレデレになって、飼い猫自慢の写真をアップしたり、猫のろけ漫画や小説を披露する時代ってあっただろうか。パレスチナでは子供が虐殺されているというのに、猫可愛いー❤️とか言っている場合か!と怒っている人を見たことがある。地球上のどこかで酷い目にあっている人がいる時に楽しい投稿をするとは何事かというのは筋違いの怒りなのではないかと思うが、気持ちはほんのちょっとだけわからないでもない。ちなみにこの猫の写真は数年前に旅行に行った備中松山城で撮った。迷い猫だったそうだがやたら人懐こかったのでよく覚えている。その後、この猫は猫城主なるものに任命されて城のマスコットになったらしい。
啓蒙の大切さを説く人がいた。その人曰く、啓蒙を否定するのは反知性主義なのだという。もちろん私も先人により積み重ねられた学術の知識、集合知というものへの敬意は持つべきだと思う。しかし一方で愚かな大衆は偉い知識人の見識をふし拝んで受け入れろ!というような物言いには反発を覚える。それは大衆が当然に抱く権威への反発なのではないか。
ときに、この年末に私は初めてspy×familyというアニメを見た。しかし、初めの方を見損ねたので、物語の基本設定がイマイチ飲み込めなかった。そこで、spy×familyが好きだという中学生の姪っ子が遊びに来た際にどういう話なのか教えを乞うたのだった。「そんな事もわからないの?」と蔑まれつつ教えてもらったのだが、その時思ったのは、他の点では人生の先輩である私の方が知識があり私が教える側になる事が多いが、子供向けアニメについては子供の方が断然詳しいのだからこちらが膝を屈して教えを乞う側になるわけだ。啓蒙ってそういう事ではないのかと思う。お互い詳しい分野と詳しくない分野があり、自分が詳しいことについて教え合うことで集団全体の知性が高まっていくのが理想像だろう。それが理想通りにならない理由は、愚民は知識人の権威の前にひざまずけと言わんばかりのインテリの上から目線にもあるのではないか。
https://safety-number-check.idc.nttdocomo.co.jp/anshin/detail29.html
ネットの迷惑行為を「スパム」と呼ぶ語源は何かって常識の範囲内の知識なのだろうか。私は結構最近まで知らなかった。というか、よっぽどあの肉の缶詰には粗悪なクズ肉が使われているんだろうなーとばかり思っていた。迷惑行為という意味がもうすっかり定着してしまったので、缶詰の会社も今さらクレームを入れられなくなったのかな。
昔からIT音痴・ネット音痴だった私は、インターネットというものに触れ始めた当初コンピューターウイルスというものの存在自体がイマイチ飲み込めなかった。ウイルスみたいなものが存在すること自体、ネットの世界は人の悪意で回っていることの証拠だよなと思ったものだ。それから幾年月を経て、昔より多少はネットに慣れた今でも、その考え方はあまり変わっていない。いま騒ぎになっているfediverseへのスパム攻撃の件でそんなことを思い出した。私はまだ問題のスパムを見ていないが、とりあえず運営氏の言うとおりに対策はしておいたが、まあ匿名子の悪意とは嫌なものだ。そんな連中を反面教師にして、私は決して悪意に流されず、あくまで愛と正義に則ってネットでぐだぐだつぶやくようにしたい。そりゃ私も人の悪口を言うことはあるが、それはあくまで他人への愛をかけらも持たない輩への批判なのだ。あくまで基本は愛。ハートのラブ❤️だ。私みたいなおっさんが言うと気持ち悪いかもしれないが。
愛と正義を信じるおじさんです。 酒好き。阪神タイガースファン。 差別主義者と冷笑主義者が大嫌い。