どう即は、「勉強しない俺が最強」のナタで攻撃したがる典型だから、癖の発展系としての自生的セオリーに振り回される人の権化だよ。ああいうのが「セオリー嫌いの擬似セオリスト」。
セオリーに関する学習をした方がいいというのは、セオリーを使うためというよりも、「自分の見解を型にしていって、擬似セオリーとして延々振り回す」のを抑止するためにハンドリングの知という次元を考えられるようにするためだとか、「ジャーナリズムや論壇というこれまたセオリーの亜種みたいなナラティブに曖昧に適応して、それに振り回される」のを抑止し解析できるようになるため、っていうのが大きいな、とつくづく思うようになった。
鉤括弧つきの「セオリー」と登録されていないだけで、それの劣化体、前駆体のようなものに足を取られている人は山ほどいるし、Critical Theoryの履修課程が乏しい日本ではむしろそっっちが多数いる。
ギャンブル把握が2周ぐらい進むとこうなるんかという驚きのあるツリー
“ポーカーの世界大会に出てる女性の話が面白かった。
「ポーカーは他のギャンブルと違って勉強すればするほど勝率が上がるのが面白い。運と実力の要素は50:50くらい。確率論だけじゃなくて、見えているカードによって確率が次々と変わっていくので記憶力も重要。勉強が好きな人は向いてると思う」”
https://x.com/paddy_joy/status/1832775399971160450?s=61&t=GC7VSa4PcXnbn5H8qsel2w
あまり書き物ができてない。